AIは何を予言するか?

 さて、未来学者のアルビン・トフラー氏は1997年を次の3つの亊から記録的な年であるとしている。すなわち、哺乳動物のクローニング、ソジャーナの火星表面探査、そしてカスパロフがIBMの人工知能に敗北したこと、という3つである。つまり彼によれば人工知能のチェスにおける勝利は、クローニングや火星探査と同じだけの重要性を持った出来事であるということになる。トフラー氏は特に人工知能の経済システムへの影響をあげる。
 「社会経済の仕組みは、知的な機械と労働者、ロボットが生む商品、賢い消費者などによって構成されている。そこでは、個人や家族を基板にした『粒子型マーケティング』が進んでいる」。ここで言う粒子型マーケティングとは個人や家庭を単位とした消費経過などの情報がデータベースに蓄積され、それがもととなって販売ターゲットが決められ、セールスや販売促進活動が行われる状況をさす。トフラー氏によれば、そのような段階を経た後、「商品供給者と顧客との対話によって、生産・流通・購買が行われる双方向の経済システムとなり、技術変化、社会的、文化的な変化が同時並行で動きだし、権力構造までも基本的変化を起こす」という状態に突入するとのことだ。
 ボードゲームの盤上を飛びだした人工知能は、まずは経済のシステムの中に入り込む。そこで顧客一人一人に最適化された「サービス」が行われる状況がつくられる。生活の便利さという視点から見た場合、これは格段に便利になると言えるだろう。なにしろ、今まで信頼できるかどうかもわからない店員の「素敵ですよ」などといった言葉と、その日の自分の感覚のみを判断材料にしていた所が、現在までの自分の好みの傾向などがすべて分析されたうえで「買うか否か」の指針が示されることになるのだ。
 さて、ここまでは判断に関して「すごさ」「便利さ」という点からAIを眺めてみた。それ以外の点からはどう評価すべきなのだろう。つまり、トフラー氏の言う、権力構造までもが変化するという段階に突入してからのAIと人間の関りはどうなるのかという点をどう見るか、その関りをどう評価するべきなのか、ということである。明らかに言えるのはAIが生活の中に溶け込めば溶け込むほど人間は考えるということをしなくなるということである。これはAIとまでは行かなくとも、炊飯などの具体例を考えればわかることだろう。これを是と取るのか非と取るのか、というのは簡単ではない。他の部分に余裕が生じるのだからよいことだということもできるし、反面あらゆる分野での「思考」の放棄が人間をおかしくしてゆく、といった論調も成り立ってゆく。
 ところで、人間の心の働きというものは判断以外の働きもある。情念の部分や勘と呼ばれるような心の働きである。
現在のところ「人工知能」が行うのはデータの評価とそれによる判断である。つまりは蓄積しうるデータの範囲の中での判断のスペシャリストである。ここからAIがどの方向に研究されてゆくのか。まずはスペシャリストとしての精度が上がってゆくのだろう。その後はジェネラリストとしての方向、つまりは「情念」「勘」を働きとしてもつAIが目指されると考えられる。すでにカオス理論をもとにした、論理を超えた論理を導き出そうという実験が行われている。つまり、人間以外の「高度な知能を持った存在」が世の中に生まれることになる。
 その時にこそ、人間の「人間らしさ」というものが際立ってくるのかもしれない。それはクローン技術や宇宙への進出と同じように、人間に新たな次元に立つための意識と精神の成熟をつきつけるだろう。この局面を迎えて、はたして私達はどのような方向性を選んでゆくのだろうか?

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