が「協力」するという行為が発生するようになった(もちろんそれは裏を返せば、お互いの邪魔をするというささくれ 立った遊び方が誕生したということでもあり、 それはそれで楽しかったりするのだが…)。 またもう少し後になっての話になるが、ISDNの パケットを利用した「将棋」や「囲碁」など、ついに遠隔地同士でも「人」対「人」の対戦もできるようになってきた。だがもちろんこれは、ゲームを遊ぶために必要なデータが瞬発力を必要としたり持続性を保持する必要を問われない特性のもので あり、それがパケット量に対する課金方法という金銭的に割にあうものであったこと、さらにまた 帯域幅が狭くてもゲームに支障をきたすことが ないというインフラの制限とも合致していたから できたことでもあり、利用できるゲームは非常に 限られたものであった。

 しかしこの段階になって「ゲーム」がそれまで人々が体験してきた「遊戯」に追いつき、さらに その先で遠隔地同士でも遊ぶことができると いう新しい体験を得ることが可能となった分岐点だということは記憶に留めておいていいと思う。  今までは相手が「人」、「コンピュータ」に 限らず1つであったが、相手が複数、そしてそのすべてがプレイヤーのその先の行動に影響を与えるゲームシステムが登場した。RPG (ロールプレイングゲーム)の誕生である。そのゲームの中の世界にはあらかじめプログラム された多くのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)が存在し、その彼等から得られる膨大な情報をプレイヤーが整理・考察し、次なる行動を自らの意思で決定することでゲームが進行していく…。  ここで重要なのは、その多くのキャラクターが自分の胸に抱いている感情や目的は、 まったくもって多種多様であるということである。キャラクターの種類でいえば、シューティングやアクションゲームに登場する敵や、レース ゲームでのエネミーカーも数多く登場するではないかと言われそうだが、動きに違いこそあれ、ゲームにおけるそれらの目的は絶対唯一、プレイヤーを倒さんとすることであった(有名な『ゼビウス』など、若干
違うものもある)。しかしRPGに登場するキャラクター達は違った。その多くは確かにプレイヤーがゲームをクリアーする ための指南役であったが、それとはまったく無縁のまさに「その世界の住人」であるだけの者も数多く存在した。  ただこの段階では、生身の人間であるプレイヤーは一人だけ、つまりまだ「コンピュータ」を相手にしたゲームであり、そのおもしろさを他の人間と分かち合おうとするには、ゲームをプレイしているのとは別の時間で情報を 共有する必要があった。

 インターネット草創期。いわゆる「ネット ワークゲーム」と呼ばれるゲームがついに 登場し、それらは家庭用 ゲームマシンでは なく、パソコン向けのゲームとして産声をあげていった。『DOOM』や『Marathon』などと いったそれらの多くのゲームは、テクスチャーマッピングを施された3Dのシューティング・ アクションゲームで、見た目を排し単純に ゲームシステムだけをとって見れば、それまでに存在した同じジャンルのゲームと違う ところはほとんど見られない。しかし最大の 魅力は、シリアルケーブルやEthernetを通じたネットワーク(まだLANがメインで同時参加人数は少数に限られていたが)を利用する ことでそれぞれのマシンからプレイヤーが 参加し対戦することを可能としたことであり、ここにおいてプレイヤーは自分だけの視点を自分だけの画面でもって所有し、さらには ゲームの内容自体は他のプレイヤーと同時体験ができるようになり、よりゲームの世界観に没入していくことができるようになったの である。
 そして現在。ネットワークゲームはインター ネット、さらにはゲーム専用のネットワーク までを構築して、ついに多数の参加者による 同時体験を可能にするまでに至った。 特に『ウルティマオンライン』に代表される ネットワークRPGの発展は凄まじく、世界中 から多くのプレイヤーがその世界に集い生活を過ごし、そこでは日々新たにさまざまなイベントが発生していく。既にそこはもうひとりの自分が住むパラレルワールドと呼ぶにふさわしい…。




 以上、いくつかのパターンに分けて「コン ピュータゲーム」を振り返ってみたが、この ようにまとめてみるといくつかの鍵が見えて くる。
 ひとつは、「コンピュータゲーム」というものがいかにインフラやハードの性能に制限を 受けてきたかがわかる。インフラが貧弱だからそれに沿った「コンピュータゲーム」を生み出したのか? それとも元々は豊潤だった ゲームアイデアを仕方なくその時々の貧弱なインフラにあわせてきたのか? もちろんそれはここでは窺い知ることはできない。しかし 確実にその相関関係によってゲームの進化は制限されてきていた。
 またそのように考えると、インフラやハードの性能という、いわば技術を「コンピュータ ゲーム」の一要素とした場合、その技術がある一定の飽和状態に達してしまった時にどうなるのか? という疑問が生まれてくる。PS2の登場により、現にCGの表現力において既にその 飽和状態のひとつの要素が生まれたと言える今の「コンピュータゲーム」の世界で、そこからどういう動きがあるのか非常に興味深いところである。もちろんハードウェアの分野だけを 見ても、その基盤となる部分において今日とは全く異なる技術が適用される可能性を常に併せ持っている。だから「全てにおいて飽和 することがあるのか」というのはコンピュータによる人間の支配というような