AVがもたらしたものと同じような影響をITももたらす可能性はあるのでしょうか。

 もちろんAVと同様なことはITでも言えると思います。例えばITやTVゲームなどにはよくアニメ系のバーチャルな女性が出てくる恋愛ソフトがありますね。そういうゲームの中の異性は自分のコントロールの下にあって、予想外の動きはプログラム上、 想定していない作りになっています。同様にAVでも異性は自分のコントロールの 下におかれることが前提となっています。そういうものに慣れた男性は、自分が相手をコントロールできない状況では「抜け なく」なる。それに自分のコントロールが及ばない状況では、さまざまなリスクや トラブルが発生するし、プライドが傷つくこともある。そんなリスクを背負うよりもバーチャルな恋愛の方がラクで良いと思う男性が増えるのは当然です。加えてゲームやAVではハイパー・セクシュアル、つまり 絶倫男や絶倫女ばかりが登場し、かつ 性器サイズ
も平均を超えています。こう いうメディアがモデルを提供することで プレッシャーになり、ますます男女ともに自信を失い、特に男性を現実の恋愛から 撤退させていくことになります。
 AVとITの違いは規制の有無でしょ うね。AVには国内市場の中での規制がありますが、ITはそれがありません。ITに国境がないということは、ある国で規制 しても別な国で規制がなければ全く意味がなくなってしまうということです。少年 犯罪などで少年がホラーもののビデオに興味を示していた、などとよく伝えられますが、あのような刺激に一度 はまってしまうと、より強い刺激をと、どんどん刺激の限界効用が逓減していきます。セックスについても同じことが言えます。殺人とセックスが結びついたようなSM的なものや、チャイルドポルノなど、どんどん刺激の強いものが出てきます。こういったものに無規制状態の国があると、ITはボーダレスですから、どこからでもアクセスできてしまいます。
コミュニケーションツールとしてのインターネットの特性を、「恋愛や性」に上手く活用 していくことはできないのでしょうか?

 性愛を「接近の技術」と呼んだ学者がいます。つまり個体は固有の身体距離を持っていて、その距離が侵されれば防衛のためのメカニズムが発動します。相手との距離を詰めるには、その防衛の閂をひとつずつ外していかねばなりません。ちなみに、この過程で相手方から発せられる「ノー」のサインを見落とす、又は故意に無視するのが「セクハラ」です。こうして距離を縮めて いく方法などを見ても、対人関係は技術だと言えます。そして技術は必ずどこかで習得しなくてはならない。例えば戦前なら若者宿の「夜這い」などが 習得の場になっていたり、また戦後は「共学」や「デート」といっ
たもので 技術を習得してきたはずでした。ところが最近はこの技術を習得をしていない若者が多いような気がします。東大でも男子は中高一貫教育の男子校出身者が多く、人間的に最も柔軟な時期に接近の技術を学ぶ機会を逃している。
接近の技術の習得なしに、相手の閂をはずす手続きをすっとばして即セックスに至ろうとするのは野蛮です。接近の技術を経験する場さえあれば、モデルと現実がどれほど違うかを認識してモデルの押しつけを崩していけるはずなのに、その場がないからモデルは維持されたままで、現実とモデルのギャップがいつまでも埋まりません。ITは出会いを作るきっかけにはなるかもしれないが、対人関係能力は言語だけでは決まりません。非言語はコミュニケーション能力も含めて経験を積む学習の場が必要です。
結婚というものもITによってさまざまな形が生まれています。例えば現実には会ったこともないような二人がIT 上で「バーチャル結婚」を行ったり、 あるいはITが結婚生活そのものに新しい可能性を生み出したりしています。 こうようなITを媒介とする夫婦関係 などが現実の人間関係にはどのような影響を及ぼすと思われますか。

 結婚とはそもそも排他性や特権性を伴う契約であると言うことができます。つまり「あなた以外の人とはこのような関係をもたない」という契約で、 これを破ればルール違反、即ち「不倫」となります。バーチャル結婚というものに排他性が伴うか否かは分かりませんが、もし伴わないならそれは「友達」と同じこと。それにそれが異性間に限られないのであれば、あえて「結婚」と言う必要もないと思いますね。またIT上の出会い系サイトで、相手のことも十分に分からないうちに実際に結婚するケースもあるかもしれません。戦前にも「文通結婚」というのがありました。
本来、対面関係でのコミュニケーションのなかでは言語的な情報のほか、 しゃべり方や物腰、雰囲気など、言語以外のさまざまな情報を得ることが でき、それらを総合的に踏まえてその人を好きになるか否かが決められる訳です。でもITや文通では情報は言語だけに絞られる。言語情報に限定されることで他の人には言えない打ち明け 話や、とてつもなく恥ずかしい話ができたりする。これで相手が分かったような気持ちになって文通だけで結婚 するという無謀な男女も戦前にも存在 していました。ただ言語というのは 「粉飾」も可能ですから言葉だけでは 分からないことも当然多いはずです。
こういったギャンブル的な結婚をする人は、何が何でも結婚したいという 動機付けの強い人が多いと思いますね。
ギャンブルだから当然はずれがあるというリスクを十分承知していながら ジャンプする。つまりジャンプせざるを得ない状況に追い込まれているんでしょう。IT上のシングルペアレントのネットワークで知り合い、再婚に至ったカップルを知っていますが、彼らもさまざまな事情から再婚せざるを得ないような状況に追い込まれていました。私の関心は、このように限られた情報だけで結婚したカップルの、その後のサバイバル率ですね。友達関係から 恋人関係を経て夫婦になる人のような日常的な積み重ねがない状態、つまり「知らないことによるギャップ」が生じやすい条件で結婚に至ったカップルのその後には注目していきたいですね。
 それなら「IT結婚」はITの上だけで完結 するのがルールと考えるべきでしょうね。つまりIT上のカップルが実際に会ったり、 ましてや肉体的な関係をもち、さらに子供まで作ってしまうというのはもっての ほかだと思います。IT上でバーチャルな 子供をつくるという手はありますよ。つ まり二人が夫婦であるのはIT上の人格に 基づいての話であって現実とは別次元の 関係。次元を変えてまで会うというのは ルール違反でしょう。
 こういうことを言うと必ず「多重人格化」などの批判がされますが、人格がたったひとつのもので「統合された人格」であるべきというのは、かなり近代的な信念なんです。対して私自身は人格をばらしてどこが悪いって考えます。人によって違う顔を見せることでそれぞれの顔が矛盾しても別に構わないと思うんです。つまり媒体が違えば人格というのは全部分割できるん です。このことは人格のリスクマネージメントにつながると言えますね。