高安秀樹さん 
Hideki Takayasu 


ソニーコンピュータサイエンス研究所 
シニアリサーチャー 


毎日の新聞やTVのニュースを見ていると、日本の、そして世界の経済状況は決して安泰とは思えない。むろん、そこにはさまざまな原因があるわけだが、経済政策や金融市場に応用されている経済学や金融理論が、実は実際の経済現象に即していないという見解にも、耳を傾けるべきだろう。そうした混迷する経済状況の本質を解き明かし、具体的な解決策を示すのではないかと期待されている研究手法として、「経済物理学」に最近大きな注目が寄せられているが、その分野の日本の第一人者である高安秀樹氏に、経済物理学とはなにか、またその目指すところについて、お話を伺った。
【プロフィール】
高安秀樹(たかやす・ひでき)さん
ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。
専門はフラクタルを中心とする非線形物理学。
1980年名古屋大学理学部卒業、93年東北大学大学院情報科学研究科教授。
97年から現職。趣味は料理。44歳。
天秤 経済物理学とは
どんな学問なのだろうか?


 経済物理学とは、大雑把にいえば経済の世界の価格変動や価格の暴落といった現象について、物理学が培ったさまざまな概念、解析手法、シミュレーション技法を用い、その法則性を解き明かそうという学問だ。
 実際、毎日のTVニュースや新聞で目にする株価や為替相場の変動を起こしているのは、いうまでもなく、それを売り買いするディーラー=人間だが、人間自身が変動を作り出しているにも関わらず、その変動や、あるいは大きな変動が引き起こす株価や為替レートの暴落という現象は、人間自身がコントロールすることができない。ならば、そうした現象は、物質の世界と共通するような普遍的な法則性があるのではないか、客観的な科学の対象となるのではないだろうか、というのが、発想の原点となっている。

「経済物理学っていうと、すごく新しい学問のように思われると思います。むろん、こういう名前が付いたのはごく最近のこと(1997年)なんですが、物理学の手法で経済を解き明かすという手法は、実は今から220年くらい前から行われている。要するにアダム・スミスが『国富論』(1776年)などで提唱した、需要と供給の安定均衡によって価格が決定されるメカニズムなどは、物理の力の概念そのままなんですよ。需要と供給を“力”だと考えて、そのふたつのバネの力で押し合ってつり合うというような発想なんですね。むろん、時代的に、力学的な世界観で世の中のすべてを説明できるという雰囲気もあったとは思いますが、まあいってみれば経済学の原点は、物理学に非常に近いところにあったと。
 その後、物理学が物事の法則性を研究するという普遍的科学的な立場で進む一方、経済学はやはり現実的な“利益”というものに直結するものですから、一見より実際的な、現実的な学問として発展していったわけですが、1975年にマンデルブロが“フラクタル”という物理学的概念を提唱して以来、経済学への物理学的アプローチが活発になってきた。
そもそもマンデルブロがフラクタルという概念を思い付いたのも、彼が株価の変動のデータを解析していたときなんですよ。フラクタルというのは、ご存知のように、簡単にいえば大きく見ても小さく見ても同じような形になるという現象についての概念なんですが、実際株価の変動のグラフというのは、時間軸を長く取っても短く取っても、非常に似通った形になる。その辺から広がっていって、経済の世界の変動の本質というのが、物理学という科学のアプローチでもって解明できるんじゃないか、というのが、まあ経済物理学の発端ですね。
 わたしも出発点は経済学ではなく、物理学、それも中心的にはフラクタルの研究に携わっていたんですが、ふと考えると、フラクタルという発想の原点だった株価の変動、マーケットの変動についての説明が全然なされていないことに気が付いたんですよ。それが十数年前のことですが、そこから本格的に、経済物理学の研究に携わるようになったというわけです。
 ちなみに、研究を開始した頃は仮想のディーラーと仮想の市場をコンピュータの中に作り、ちょうど人工生命の研究のように、仮想の市場の動きを観察して現実の市場との類似を見ることで研究を進めていたんですが、現在は金融関連の膨大なデータはすべてデジタル化されていて入手も簡単ですし、またそれなりの演算能力を持ったパソコンも入手しやすくなっていますから、経済の動きを物理学のさまざまな技法で解き明かそうという作業は、非常にやりやすくなっていますね」


天秤 “対処療法的”ではない
経済物理学の役割


 経済の動きを解明したり、あるいは為替や金融の世界では付き物のリスクを回避する方法として、いうまでもなく経済学という学問や、またより実際的なアプローチとして、金融工学の研究と応用なども盛んに行われている。そうした研究手段と、経済物理学とは、その立場や成果はどのように異なるのだろうか。


「まず従来の経済学全体にいえることは、需要曲線と供給曲線の交点で適正な価格が決まる、という、先に述べたアダム・スミスの理論がある程度基本となっているし、力の均衡を説明するために、バネのアナロジーが使われている。しかしこれは実際の市場の動きに照らし合わせると、市場の揺らぎという性質を無視しているわけですから、現実に即しているとはいい難い面がある。
 それから金融工学は、リスクヘッジのためのオプションなどの金融商品や、あるいは金融保険の開発に論理的根拠を与えているなど、より現実的に経済の動きに関わっているわけですが、どちらかというと対処療法的だし、経済の動きを確率論的に捉えていますから、厳密に実際の経済の動きに追随しているとは、やはりいい難い。
 というのは、為替レートの動きなどを非常にミクロな視点で観察していくと、確率論では捉え切れない動きの“癖”があるんですよ。たとえば金融工学などでは“裁定機会”といって、お金をただ左右に動かしたり回したりするだけでリスクなく利益が上がるということがあってはならないとしているんですけど、実際の取引はものすごいスピードで行われていますから、その中で裁定機会が生まれてしまうこともあるんですよ。それもデータを調べてみると、一日の中で5%くらいそうした裁定機会が見られている。そして、その5%の時間が、大きく経済に影響を与えていることも、実際にはあるわけです。でも、確率論的に経済の動きを捉えていると、そうしたダイナミクスは見えてこない。
 一方経済物理学は、そうした実際の現象から普遍的な法則を見つけ出していくわけです。むろん、ディーラーひとりひとりの心の中まで知る由はありませんが、それがある程度の数としてまとまって経済を動かしているわけですから、そのダイナミクスは集団力学として捉えられるはずなんですね。その普遍的な法則がつかめれば、揺らぎを伴った市場の大きな変動や、あるいは暴落の前兆なども捕らえられる。それが捕らえられれば、なんらかの対策を講じることができる。その辺が、従来の経済学や金融理論と経済物理学が大きく異なる点だと思います。
 実際、情報を公開して規制をなくせば市場は安定する、というのは従来の経済学や金融理論からの提言なんですが、それを実行した結果、経済は現在のような状況になっている。それは簡単にいえば、現実を忠実に反映した経験則や理論の確立という実証的な科学の姿勢が欠けているということだと思っています。その意味でいえば、現在日本政府が行おうとしている経済政策も、抜本的ではない、対処療法的にしか見えないわけですが、少なくとも私たちがやろうとしている経済物理学は、経済現象を実証的に分析し、その結果を現実の経済対策に活かす、ということが役割なのだと考えています」


天秤 経済物理学は実際にはいつ、
どのような成果を見せるのか


 経済現象の普遍的な法則を見い出そうとする経済物理学は、物理学者からの学際的なアプローチというだけに留まらず、経済界の中心からも強い関心を寄せられている。高安氏の研究も、たとえば日本銀行など日本経済の中枢部から、高く評価されているという。日本の、そして世界の経済が混迷する中、経済の軌道修正手法としても経済物理学への期待は高まるが、実際には、いつ、どんな成果を見せてくれるのだろうか。


「私たちの研究でいえば、まずインフレーションのメカニズムの解明に関しては、かなりの部分まで進んでいます。特に一般的なインフレがハイパーインフレに変わる予兆というのは、かなり明確にわかるようになっている。まだ技術的には試作段階ですが、特許出願中ですし、最近エコノミストの間でも、ここ2〜3年のうちにデフレからインフレに転換するのではないかと囁かれていますから、現実的な成果として役立つ可能性はかなりあると思っています。
 もうひとつ大きな仕事としては、これは経済物理学とは直接関係ない部分も多いんですが、“企業通貨”という概念の提唱ですね。要するに、企業が通貨を発行し、取引に用いることで、為替の変動による損得の影響がなるべく小さくなるような経済環境を作る、ということです。現在だと、企業の損益はかなり為替レートに影響を受けていて、円建てで計算すると赤字だけどドル建てで計算すると黒字、なんてことも実際に起きている。それで結局儲けるのは、為替を動かして当った人とか、金融保険の側だとかになってしまうんですが、企業通貨が実現すれば、企業として膨らんだのか萎んだのかは一目瞭然だし、モノとお金の取引が為替に影響されないわけですから、たとえば日本の企業の場合だったら、円の上下を気にする必要もほとんどなくなるわけです。
 実際、最近は経済の中枢にいる人ほど、円に対して悲観的ですが、たとえ仮に円がひどいインフレを起こしたとしても、こうした経済環境が実現していれば、影響は少ない。10〜20年以内には、ぜひ実現したいですね」

text by : 渋谷 並樹


【ホームページ・著書紹介】
http://www.kansai-cs.com/takayasu.htm
高安氏のホームページ。本稿では限られた紙幅の中で、できるだけ高安氏の研究と経済物理学のエッセンスをお伝えするよう務めたが、むろんその概要を余すところなく伝えることができたわけではない。氏の研究活動や経済物理学の詳細については、氏のホームページ、および A「経済・情報・生命の臨界ゆらぎ」(ダイヤモンド社 /2000年)、 B 「エコノフィジックス-市場に潜む物理法則」(日本経済新聞社(2001年)(共に高安美佐子氏との共著)などの著書も、併せて参照していただきたい。また11月に第2回目の経済物理学シンポジウム(日本経済新聞社主催)が開催される(http://web.nikkei-r. co.jp/sae)。経済物理の実用的な応用面に重点をおいたシンポジウムとのことなので、興味を持たれた方はぜひ足を運んでみてほしい

A:
エコノフィジックス
市場に潜む物理法則
(日本経済新聞社/2001年)
B:
経済・情報・生命の臨界ゆらぎ
(ダイヤモンド社 /2000年)
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