ありとあらゆる映画についての映画。 科学技術と戦争、金と女――つまりはここ100年の歴史が詰まった映画。 そんな映画があったら見てみたい? よろしい、あなたにはジャン=リュック・ゴダールの『映画史』をおすすめしよう。 すべての映画についての映画。過剰な音とテキストとイメージに翻弄される快感。映画の歴史を語るエレクトリック・シネマ(5枚組のDVD)。それがゴダールの『映画史』※1だが、あくまでも“ゴダールの”とつくところに注意しよう。ここではアジアをはじめとする第三世界の映画は扱われない(ジャパニメーションなんかこれっぽっちも相手にされない)。映画黎明期の巨匠、ハリウッド映画(A級からC級まで)、記録映像、ポルノグラフィ、西洋の名画、詩、哲学……要はゴダール好みの素材で編まれた“俺節爆発”の『映画史』なのだ。そこらあたりがいっそ潔い。 『映画史』は膨大な(商業映画を含む)映像アーカイブを切り刻みデジタル編集した作品である。デジタル編集といってもさほど難しいことをしているわけではない。スローや早回し、ストップモーション、そして2つの映像がパラパラと切り替わる(gifアニメのような)単純なテクニックの集積。誰にでもできそう。でもゴダールにしかできない編集。デジタル映像をさんざん見慣れている眼に、『映画史』はとても“若々しく”見える。いったいゴダールって何歳なの!? 1930年パリ生まれ。映画好きを越えてオタクの域に達していたゴダールは、同じく映画オタクだったフランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールらシネフィルたちと映画評論活動をはじめ、さらには自らメガフォンをとるようになる。1960年代に一世を風靡したヌーベル・ヴァーグの台頭だ。 溢れかえる引用に満ちたゴダール作品は「難解」と評された(事実難解である)。筆者はヌーベル・ヴァーグ世代ではないが、80年代半ばのリヴァイバル時には、勇んで名画館に通った。「ゴダール作品を全部見てやろう」の意気込みで3本立てに挑戦する。結果、ほとんどの時間を居眠りで過した。どうしても寝てしまう、わけがわからない。しかし数々のゴダール作品(カラヴィニエ、男性女性、中国女etc.)は、心と視覚にくっきりとした印象を残した。 リヴァイバル当時、大森一樹監督※2がある情報誌に寄せたゴダールについてのコメントをうろ覚えながら引用してみよう。彼もゴダール作品には戸惑ったらしく「パンパンと間の抜けた銃声の響く殺しの場面」の迫力の無さに拍子ぬけした(気狂いピエロ)と告白していた。しかし大森監督は言う――「ゴダールのイメージは、ぷちぷち弾けるサイダーの泡のように、僕の心の中で跳ね続けている」。 そう、理解できるかどうかなんて問題じゃない。ゴダールの映像世界は鮮烈だ。一度見たら忘れられない。そうでなければ“とってもオシャレな映画”としてファッション雑誌が繰り返しゴダール映画のヒロインたち(「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグや「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナ)を取り上げるわけがない。 1960年代に登場したヌーベル・ヴァーグの諸作品が、そしていい歳をしたゴダールの『映画史』がなぜ今だに“若々しい”のか。ひとつの理由として独特の“カットアップ感覚”が挙げられると思う。「カットアップ」といえばやはり50〜60年代にビートニク作家の支柱となったウィリアム・S・バロウズの方法論(切り刻んだ新聞記事を貼り合わせたでたらめ文章を小説のネタにする)が有名。尋常な“編集”とは一風変った“でたらめ”さがカットアップの魅力※3。物事をよりわかりやすく、より効果的に並べるのが編集だとすれば、カットアップがもたらすのは異質な世界が衝突する“段差”の面白さだろう。 実は現在我々が生きている日常は段差だらけだ。多チャンネルのテレビをザッピングしていく感覚、思考を途絶するワープロの誤変換、ネットのリンクを辿れば1クリックで別世界に飛ばされる。 世界は「意味のあるものとしてひと繋がりになっている」とも言えるし、また「どうしようもなくバラバラだ」とも言える。バラバラなもの同士の予想を越えた出会いは、私たちを混乱させつつも時に新鮮な驚きを与える。 映像のカットアッパーであり、サンプリングミュージックの始祖であるゴダール。恐らくは熟慮の末に選ばれた(かもしれない)一つひとつの素材が、見る側にとっては情報処理能力ギリギリの速さであっという間に飛んでいく――『映画史』を見ることは、まるで高度情報化社会のシミュレーション体験だ。過酷で疲れる、そして同時にうっとりするほど官能的。19世紀末に始まる映画の歴史を描いた作品が、なぜか21世紀初頭の凝縮に似ている不思議。5枚組のDVDボックスセットを買おうという人は、おそらくゴダールファン以外にはいないだろうが、「それだけじゃもったいないかな」とも思うのだ。
|