有限会社カネトシ社長
川島弘明さん
1969年生まれ。17歳で先祖伝来の「ゆず」を守るため、母親を代表者として有限会社カネトシを設立。神戸商科大学進学後、戦争で消滅した馬術部を復活。卒業後、ミサワホーム(株)入社。同年、イマジニア(株)に出向。2年足らずの間に、営業、ソフト開発、経理、貿易、公開準備、広報、社長室をはじめとする13の部署に在籍。退社後の1996年に新事務所を設立するが、オープン当日、阪神大震災により会社と自宅が全壊。1998年、(有)カネトシ社長に就任。2001年、工場が全焼し、新工場を建て直す。自称「ゆず馬鹿」もしくは「ゆずの伝道師」として、ゆずを文化として世界に伝えるべく奮闘中。社長就任以来、毎年1.5倍以上ずつ売上げを伸ばしている。

「僕自身ゆずが大好きなんですよ。17歳のとき『学校を出たら僕が責任をもってゆずの事業をやる』という約束の証として会社を設立しました」


枯木実生ゆずを守るため、17歳で起業


収穫したゆずは水洗いし、檜の圧搾器にかけて果汁をしぼる。檜の道具を使うのは、ゆずの香りをそこなわないためだ。

____「枯木実生ゆず」と普通のゆずはどこが違うんですか。

「枯木」は樹齢100年以上の木のことで「実生」は種から育てられたということです。 枯木実生ゆずで、200年を超え、まとまって再生産可能なものは世界でもうちの3000本弱しかない大変貴重なものです。味も香りも最高。普通のゆずとの最大の違いは、根っこです。実生のゆずは、樹の高さが普通のゆずの約3倍、20メートル程にもなる。根っこも下に20メートル伸びています。樹齢がいくほど深く根を張って地中のミネラル分を吸い上げ、凝縮された味になるんです。ほとんどのゆずは、蜜柑(カラタチ)の木に接ぎ木をして栽培され、3年程で実をつけ、樹高が低いから作業しやすいという利点がありますが、どうしてもみかんの根と共生関係になるので風味に影響がでてしまうんです。」

____17歳で起業されていますが。

「当時は先祖が植えたものをやっているだけでしたが僕自身ゆずが大好きなんですよ。このゆずは、冬の間出稼ぎに出なくてもいいように換金作物として先祖が植えてくれたものなんですが、世話も販売も大変なので親戚が伐採したいと言い出した。切ってしまったら食べられない。それはつらい。守りたい。その気持を両親が汲み取ってくれて、17歳のとき『学校を出たら僕が責任をもってゆずの事業をやる』という約束の証として会社を設立。建築関係の事業をしていた父が登記をしてくれたんです。その時には、自分が本気でどういう道に進みたいかわからない。方向性も定まっていない。建築もやりたかったし、コンピューターにも興味がある。東京にも出たい。それでも今、言わなきゃ、やらなきゃという気持ちでした」

ミサワホームでの日々


実生のゆずは実をつけるまでに20年近くの歳月を要する。樹齢100年でおよそ18メートル、樹齢200年ともなると20メートルの高さにまで成長する。

____それから大学に進学し、大手企業に就職。営業、販売、経営の勉強をされたんですね。

「就職は、オーナー社長の経営で、建築とインターネット、ソフトの開発、食もやっているところという基準で探したんですが、これがなかなかない。でも、ミサワホームがあった。採用時に『後々、独立し社長になりたい』と伝えて入社しました。毎日6時に出社して、夜の12時に帰宅。睡眠時間4時間で無遅刻無欠勤。皆が出社してくるまでに、新聞を全紙読んで切り抜きをし、日記を書く。残業代は請求しないで、自分の仕事をしていたんです。そうしたある朝、三澤社長がフラッとやってきたんです。 『何をしているんですか?』と聞かれたので『プロジェクトのことを考えていたんです』と応えたら、『いくら売りたいんですか?』『何か期待することはありますか?』ときいてくれ、最後に『名刺をください』というのでお渡ししたら『川島さん、この名刺だめですよ』。会社がくれた名刺なんですが、自宅の電話番号を入れなさいと。早速家に帰って全部書きました。これが書いておいてよかったんですよ。1週間後、また会ったんです。そして再び、『名刺をください』。メンタルテストですよね。ハッキリ言って(笑)。実績といえば一生懸命さと縫いぐるみの販売ぐらいしかなかったのですが、辞めるときに手紙を書いたら自宅に招待されまして、その場で『人生のなかには3度か4度、死ぬような目にあうことがありますから、そのときは遠慮なくいってきてください。是非お力になります』と父親宛てに手紙を書いてくれました。それをお土産に神戸に帰ってきたんです」


「100年の枯木の素晴らしさを人に伝えようと思ったら、つまるところ自分が100年の孤独に耐えられるだけの精神力を心のなかで燃やしていないと実業家としてはダメなんです」


阪神大震災で新事務所と自宅が全壊。2年前には工場が焼けた

____阪神大震災や工場の火災など、災難が続いたようですね。

「平成7年、退職金を注ぎ込んでカネトシのオフィスをリフォーム。さぁ開業するぞ、と思ったその日でした。ウキウキしているから僕、朝から掃除してたんですよ。そしたらヴワァーと雷みたいな音がして、バーンと割れてすべてパーですわ。震災のことは決して忘れません。それで価値観が変わってしまった。あれから、モノや体裁に対する執着が全くなくなりました。この後2年間は、生活のためにミサワホームの住宅を売ったり、Tシャツの輸入。韓国に日本の囲碁のソフトを売ったり何でもしました。三澤社長にも大変お世話になりました。

それから、2年前には工場が火事で焼けた。食品会社で一番怖いのは、販売店の棚から商品がなくなることです。1回なくなったら、もう一度そこに入れてもらうのは大変なんですよ。あの時の決断は一生忘れません。燃えたその日に銀行と取引先に電話して、どうせ判ることだから腹括って『できるだけやりますが、多分商品を供給できなくなります。食べてくれる人に迷惑がかかるから、限界があったら、今後どうするかはお任せします』と言いました。そうしたらある取引先が『そんな時こそお手伝いできなくて、何が我々の会社ですか。心配するな』と。忘れられません。感動的でした。それから伊勢丹の新宿店では、火事の後数ヶ月間、ワーッとポン酢を並べてくれました。泣きそうですよ。それはもう嬉しかったです。そういうところがある反面、うちの商品を置くのをやめていくところもあった。そこで思ったのは、100年の枯木で仕事をすることの難しさ。この素晴らしさを人に伝えようと思ったら、詰まるところ自分が100年の孤独に耐えられるだけの精神力を心のなかで燃やしていないと実業家としてはダメなんだと。これは震災や火事に遭ったからこそ、思えたことです」

おいしいものに共感してくれる人、そこからはじまる「一流の信頼関係」

____どうやって事業を軌道にのせていったんですか。

「仕事をはじめるときに最初に考えたのは、枯木のゆずは値段が高くないとダメだということ。枯木が高かったら、他のゆずの値段も下がらないから、同業者も皆喜んでくれる。そのために、川上の百貨店や高級スーパーから営業するんですが、それをやっているうちは儲からない。僕は商談失敗率0%。だって諦めませんから。何でもそうだと思いますが、仕事の報酬は仕事。次の仕事がもらえること。それに対するお金は後からついてくると割り切らないと。お客さんがまたついてきてくれることが喜びです。僕は自分で直接お客さんに説明したいので、毎年4回ハッピを着て売り場に立っているんですが、売り場で『ゆず胡椒を作ろうと思っている』といったら、他社の2000円するゆず胡椒を送ってきてくれる人がいる。こういう僕の分身みたいな、共感してくれる人が一人でも二人でもいてくださることがありがたいんです。僕が本当に好きなものを『おいしいでしょう』と紹介して、受け取った人が『あの人が商売している。おいしいなぁ』と感じて、それならそれ以上のものをお返ししてあげよう、という一流の信頼関係っていうのがあるじゃないですか。それをしっかりと繰り返していかなければと思っているんです」

____ホームページを開設されていますね。

商品を売りたいからではなくて、ゆずの文化をひろげることと、信頼のために作りました。それになにより自分が楽しんでいる。買ってくれたお客さんにゆずの情報を伝えられるし、自分のような若い者が営業にいったとき、会社が確かにあるということが伝えられる。説明はしますけど、実際に高知県まで行ってもらうわけにはいきませんから。

新しいやり方をしていくと、ある意味業界を壊していくことにもつながりますよね。商売をしていたら、きれいごとばかりでなはないし、いじめられることもある。そこに浸かりながら、どう浸からないか、ですよね。そうした古い流通の形態と闘える感覚がもてたのは、インターネットのお陰でしょうね。」


「ゆずを扱う一企業が、最初の30億円を突破するためには、毅然として銭勘定以外に育てていくものがなければならい。それが文化です。ゆずのなかの枯木ですから、ゆず全体のパイを社会的に広げたい」


「ゆずの文化」をつくりたい 


(有)カネトシのみなさん。阪神大震災後は、ミサワホームの「復興センター」として使われていたというオフィス前で。

____「ゆずを中心とした文化をつくりたい」と仰っていますが。

「ゆずを扱う一企業は、最初の30億が限界。ポン酢、入浴剤、化粧品といった単なる置き換えでは、限界を超えることはできない。これを突破するためには、いとも簡単でたやすい事だと毅然として銭勘定以外に育てていくものがなければならい。それが文化です。ゆずのなかの枯木ですから、ゆず全体のパイを社会的に広げたい。そこで『何かいい方法ないかなぁ』と考えて、ワインに学べば活路が見出せるんじゃないかと思ったんです。例えばワインのテイスティングは、お客さんが気に入らなければ店が損をする。店とお客さんの間に闘いがある。これは文化ですよね。

ゆずは絞りたてが美味しいんですが、悲しいかなそのままでは、酵母のせいで液が噴いてしまう。でも熱処理したゆずが、世界で一番美味しいゆずだと思われたくないんで、絶対要冷蔵で「鞄のなかで破裂するかもしれませんよ。」と説明して売っている商品もあります。今は売り場を限定して売っていますが、うちに力がついたらもっとやりたいですね。ほかにも日本酒みたいに金のシールをかぶせたり、シャトーマルゴーにつけられるファーストラベル(最高品質を示す)とセカンドラベル(ファーストラベルに若干劣る)に倣って、限定1万本にファーストラベルの札をつけたことも。『気に入らなかったら全額返金します』というのもやった。

でも、僕も自分勝手なんですかね。こちらの思い入れの割にはお客さんに全く伝わっていないような気もする。これからの課題です」


川島さんのお母さんの敏美さんと、叔父の上村勝さん。80代の現役ゆず名人だ。一族は江戸時代からゆずを栽培。現在は低農薬有機栽培をしている。

____今後のビジョンをお聞かせ願えますか。

「まず、見たいシーンがあるんです。売り場でお客さんがうちのポン酢だけ2本もっていってくれるところが見たいです(笑)。その一方で、『5年あれば世界にポン酢を広げることなど、いとも簡単』と心のなかで思っていなければ。

ある程度予想のつく3ヶ月後は未来じゃない。3年後が勝負です、どうか応援してください」


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ゆずを語りだしたら止まらない。そこには、生々しい日々の試行錯誤と、人との出会いがあった。両親、親戚、先祖、馬術部や会社で出会った「師匠」たち、取引先、お客さん。ここには紹介しきれなかったが、川島さんは彼らに受けた恩について熱心に語った。それが、とても印象的だった。



ホームページ紹介

@ゆずまる
http://www.kanetoshi.co.jp/

川島さんのゆずの世界が堪能できるホームページ。商品情報にとどまらず、歴史や栽培方法、栄養と食品科学、料理レシピをはじめとする実用情報も充実。川島さんが実演販売に訪れる日程をチェックすることもできる。

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