特別連載/未来への質問状

Vol.2 −量子コンピュータは人間に何をもたらすのか−

未来を変えてしまう可能性を秘めた「量子コンピュータ」に注目している「リンククラブ」は、前号より各界の第一線で活躍する研究者や権威にインタビューを開始した。どうやら何か大きな変化が起りそうだ。現在の価値観を覆す新しいものが誕生するのでは…。期待と不安が入り混じる。しかし、私達が近い将来、必ずや出会う世界がそこにあることは確かだ。量子コンピュータは人間に何をもたらすのか? この21世紀を象徴するパラダイムチェンジにインタビューを通じて取り組んでいくことで、ほんの少しかもしれないが、可能性のある未来に近づきつつあるように見える。


量子コンピュータを理解するためのステップ

  1. 不思議な量子の世界
    私達が「物」として認識できる限界を超えて、さらにミクロの世界に潜っていくと、不思議な現象が起こっている。それが、電子や光子など量子の世界だ。遠くからぼんやりと眺めていれば量子の世界は存在するけれど、近くでしっかり観察すると、量子の世界はどこかへ消えていってしまうのだ。量子の世界では、物質が同時に複数の状態で存在することができる。また、観察の過程そのものが対象の状態を変えてしまう性質も持っている。つまり私達が見た瞬間に、答が変わってしまうのだ。ランダムに変わり続ける状態は、確率で表現するしかない不思議ワールドなのだ。
  2. 量子の現象を逆手にとった量子コンピュータ
    従来のコンピュータは、「回路をいかに小さく作るか」が技術の進歩だった。しかし0か1かを必ず選ばなくてはいけないという根本的な性質にはかわりはなく、ここに限界が見えてくる。ここで、つかみどころがなくやっかいに見える量子の現象をコンピュータに利用すればいいのではという、逆転の発想が生まれた。量子世界のパラレルワールドには限界がない。この理論が量子コンピュータをとらえる基本となる。「何人ものあなたが、別々の世界で 違う計算を同時に行っている」ようなイメージ。それは既存のコンピュータとは比較にならない処理能力なのだ。
  3. ビットとキュービット
    ビット キュービット
    0≠1 0=1
    ハッキリ あいまい
    唯一神の世界 八百万の神々の世界
    yes or noハッキリの
    欧米型
    状況に応じどちらにも
    なる日本型

    「ビット」は、既存のコンピュータが扱う情報の基本単位。あらゆる情報を0か1に置きかえて符号化する。確固として曖昧さは全くない。一方、「キュービット」とは、量子コンピュータで扱う基本単位で、「quantum bit」を略したものだ。既存のビット情報と異なり、同時に0と1の両方が存在する。「1かもしれないし、0かもしれない」という曖昧な状態のままである。個々の電子や光子は、脆く、はかなく、そして互いに複雑に絡み合っている。物質の複雑な世界を表現するためには、ビットよりキュービットの方がはるかに適していると言われている。
  4. 量子コンピュータ実現の難しさ
    量子コンピュータの実現は理論上の世界では可能になった。しかし、量子コンピュータは環境にデリケート。処理中に答えを導き出そうとして無理に見ようとすると、同時に絡み合っている量子情報は失われてしまう。そこで複雑で多様な処理を可能にするためには、たくさんの光子の量子情報を相互に絡み合わせておく必要が生まれる。また、何通りもの計算が同時にできるということは、それらの計算結果もすべて同時に出てくるということであり、どの数字がどの計算結果なのかがわからなくなるという特性も併せ持っている。このようなデリケートさと量子の「絡み合い」の扱い方が、量子コンピュータ実現の最大の難関だとされている。
  5. 量子コンピュータ実現への挑戦
    現在、世界中で量子コンピュータ実現への研究が進められている。その代表的な研究の原理は次の4つ。
    • 極低温、超高真空という条件の中でイオンの動きを利用する。 
    • 原子集団を1キュービットとして扱うことで、重ね合わせの状態を保つ。
    • 外部電極と結合した微小な超伝導単一電子対箱を作り、ゲート電極を作用させることで重ね合わせの状態を作る。
    • 個体の量子ドットを用い、最適なエネルギーの光子をぶつけることで重ね合わせの状態を実現する。
    以上の原理にはそれぞれ利点・欠点があり、その実現は高いハードルの連続であるとされている。

発想を転換した天才ファインマンの偉業

1959年、物理学者のリチャード・ファインマン教授は、カルフォルニア工科大学で開かれたアメリカ物理学会で記念すべき講演を行った。講演の内容は、「原子・分子レベルではまだ活かしきれていないスペースが存分にある。この量子力学的な振る舞いを計算に利用しよう」という提案であった。つまり、これまでの半導体をもとにしたコンピュータとはまったく異なる新しいコンピュータの概念を提示したのである。それまで量子力学は、物理学としては重要な位置にあったが、確率でしか表現できないというやっかいな性質のため、コンピュータの開発とは無縁のものだと思われていた。論理的には実証されているものの、現実の世界で利用するにはあまりにも難しい領域だったのだ。ファインマンによる、量子力学をコンピュータに応用するという逆転の発想は、多くの科学者を驚かせた。当初、その実現を疑問視する者も多かったが、その後、新しいアルゴリズムの可能性が生まれるとともに、世界中の研究者が夢中になるテーマへと育っていった。


「ファインマン・プロセッサ
 −夢の量子コンピュータ−」
ジェラード・ミルバーン著/林一訳
発行:岩波書店 価格:3,700円+税

1918年、ブルックリンに生まれたファインマンは、常にユニークなアイデアを科学の世界に持ち込み、多くの人を啓蒙した物理学者である。1942年、プリンストン大学で博士号を取得。第二次世界大戦中に原爆の開発を目的としたマンハッタン計画で重要な役割を果たし、その後コーネル大学およびカリフォルニア工科大学で教鞭をとった。1965年、量子電磁力学の研究で、朝永振一郎、ジュリアン・シュインガーとともに、ノーベル物理学賞を受賞。1988年、死去。1963年初版された「ファインマン物理学」のテキストは、いまだに教師のため、優秀な初心者のための手引き書として君臨している。同時に、人間的にも非常に魅力あふれる人物で、その痛快なエピソードと多面的な人となりで広く知られている。ベストセラーとなった自伝「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(岩波書店刊)ほか、ファインマン氏に関する書籍は日本でも入手可能。



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石井威望(いしい・たけもち)TAKEMOCHI ISHI

1930年、大阪府出身。1954年、東京大学医学部、1957年、同大学工学部機械工学科卒業。通産省重工業局に勤務後、東京大学大学院に進学し、博士課程を修了、工学博士。専門はシステム工学、医用工学、マルチメディア。東京大学工学部教授を経て、1991年、東京大学名誉教授。国土審議会会長をはじめ、厚生科学審議会、産業技術審議会の委員を務める。著書に「科学技術は人間をどう変えるのか」、「『iモード革命』とは何か!」(監修)、「モバイル革命」、「日本の技術はどこから来たか?」、「ITビジネス最新リポート」、「iバイオテクノロジーからの発想」など多数。

連載2回目にご登場いただくのは、東京大学名誉教授の石井威望氏。医学、システム工学、マルチメディアなどの専門分野を自由に横断し、学術界と経済界の垣根をも越えて多方面で活躍する現代の権威は、パラダイムチェンジが起り、デジタルから次の段階へと思想的変化が起っていると示唆する。では、量子コンピュータのある未来とは、いかなるものなのか? 前後編に分けて送る石井氏のインタビュー。前編は量子コンピュータをとらえるために、私たちが知っておかなければならない考え方を軸に語ってもらった。

____まずご自身の量子コンピュータのイメージをお話ください。

最初に例え話として、飛行機が初めて空を飛んだ時のことをお話しします。人類で最初に空を飛んだのはライト兄弟ですね。前号(Linkclub Newsletter 6月号)で、西野先生が「量子コンピュータはいつできるのか?」という質問に「何をもって量子コンピュータができたと言えるのか?」と逆に質問しておられますね。飛行機の場合も同じです。何をもって飛行機は「飛んだ」とするのか。実はライト兄弟が飛行する前に何人も飛行の実験をした人がいます。しかし、なぜ「飛んだ」と言わないのか。それは飛行機がちゃんと着陸できて初めて「飛んだ」定義に合致することができるからなのです。ライト兄弟より前に、飛行機が飛んだ先例はありますが、ことごとく着陸の際に壊れているんです。安全に着陸して、すぐにまた飛ぶということができなかった。このエピソードには、人類が陥りやすい誤りが含まれています。当時の人は、飛行機とは「飛び上がるだけのもの」だと思っていたようです。しかし、実際のところ、飛行機とは「安全に着陸できるもの」だったのです。ライト兄弟は安全に着陸するために周到な準備をしています。空中での安定を確保し、それができた上で安全に着陸できるというところまで確実に導くわけです。そうすると飛行の反復ができる。だから航空事業として成り立つのです。

量子コンピュータを語る上でも、何が量子コンピュータなのかという問題があります。私はそれを解くキーワードとして「キュービット」を基本にした「キュービタル」を挙げます。このコンセプトを用いれば、量子コンピュータは理解しやすくなると思います。

____では、「キュービタル」とはどういう意味ですか?

キュービタルというのは、パラレルリアリティという言葉で説明するのが一番わかりやすいでしょう。たとえばこの部屋はひとつの実在する世界です。「ひとつの」ということに注目してください。この部屋にいると、この部屋以外のことはわからないわけです。当然この部屋以外にいっぱい世界があり、パラレルに動いています。パラレルリアリティとかキュービタルという概念、あるいは量子コンピュータという感覚を理解するための問題点は、飛行機でいうところの「空中に浮かぶ」感覚を味わうことがまず第1の要件です。本来、様々な要素がお互いにもつれあう状態にあるはずなのに、もつれあっているように見えないということが障害になっています。この部屋だけが独立し、閉じている。ここで安定しているような気になっている。他の世界がパラレルに動いて、それらと同時につながっているような自信や実感がないわけですね。

____量子の世界では、0と1が同時に存在するわけですね。 

従来、事実や答えはひとつだけでした。0か1か、ひとつだけにこだわってきたんです。20世紀前半、量子力学的な世界観が広がり始めた頃、最初にぶつかったのは「光は波動であるか、粒子であるか」という問題でした。量子力学のスタートは、両方とも実在するものであることを発見したことにあります。「どっちかひとつ」というスタンスは、シングルリアリティにこだわる19世紀の古典物理学の考え方です。それが量子力学の登場で、思想的に変わったのです。「光は波動であり、粒子である。両方とも本当だよ」というように。多くの人はこの理論を受け入れにくかった。でも、現在、量子力学のほうが古典力学よりも宇宙を研究する際には重んじられている。

パラレルリアリティとは、ここにも現実があるし、他にも現実がある。すべての実在はパラレルになっているという見方です。未来を占う時に必要なのはこの感覚なのです。このようなキュービタルという考え方は、新しい時代の牽引力になりうると思います。そこで、「量子コンピュータとは何か」という問いのひとつの答え方として、「パラレルリアリティを実現するようなマシン」とも表現できます。

____では、量子コンピュータは現在使っているコンピュータと何がどう違ってくるのでしょうか?

根本思想が違ってきます。単なる部分的性能、たとえばスピードが速くなるということは有効だけど、それは本質的なことではありません。重要なのはキュービタルのようなコンセプトです。新しく誕生した思想自身が如実にあらわれる分野があります。真っ先に登場したのはIT分野です。それが量子コンピュータのような形で実現しようとしています。遅れてバイオやナノテクなど他の産業に広がっていくでしょう。

量子コンピュータを実現するための課題はたくさんあります。ひとつはハードウェアですね。ライト兄弟の例で言えば、いいエンジンをつくってくれなくちゃ飛べないわけです。キュービットを実現するデバイスとしてスピントロニクスとかいっぱいありますが、どれが本命として残るのか、まだ定かではありません。数学的なコンピュータモデルであるチューリングマシンから、現在のデジタルコンピュータが実現していく途中にも同じことが起りました。1937年、イギリスの数学者チューリングがコンピュータの原型である、いわゆる「チューリングマシン」と呼ばれる数学的なモデルをつくり、40年頃になるとエントロピー概念を拡張した物理学者シャノンによって、現在のデジタル情報量の単位である「ビット」が登場します。これが50年代になると、商用的に使うコンピュータにまで発展していくわけです。デジタルコンピュータの前はアナログコンピュータでしたが、ここで私などの世代はアナログの限界を嫌というほど知りました。ですから、コンピュータの進化の過程は、ハードウェアの限界が決定的な実現における条件になっているわけです。

____思想的な変化とは、何から何への流れの変化ですか?

チューリングマシンの登場から、デジタル化が進み、プログラムがあればユニバーサルに仕事ができるようなった時、まさにパラダイムチェンジが起ります。そしていま起ころうとしているのも、現在のデジタルからキュービタルへ変わることによって起こる思想的変化なのです。しかし、その変化はハードウェアと密接な関係にあります。たとえばかつて「真空管があったから可能になった」とか、「トランジスタが生まれたから変わった」とか、「LSIが発明されたから実現できた」といったようなことに対応した同じ事態が発生するに違いないんです。「キュービットをあらわす新しいデバイスを発表」といった記事が専門誌に毎号出ていますが、そういった状況はしばらく続くと思います。いわばエンジンの性能が上がっていく感じですね。一方で、キュービタル感覚、ライト兄弟が空に飛び立ったような感覚はユーザーのニーズとして登場するでしょう。これは人間の側から生まれるものです。そういった意味では、使う側のパラダイムチェンジが先に起り、それに引っ張られていま未来は開かれつつあると言えるでしょう。


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21世紀最初の大きなパラダイムチェンジがいま、目の前で起ろうとしている。まず、私たちはその事実を見逃してはいけない。音や匂いはしないが、時代の空気の変化に敏感でなければならない。量子コンピュータが誕生する前に、既成概念を疑い、現在とは異なる座標軸で考える習慣も身につけておかなければならないのかもしれない。信じ込んでいるひとつの場所に居続けるのでなく、人類が海、陸、空、そして宇宙を移動するようになったように、アナログ、デジタル、キュービタルを自由に往復できる、しなやかでしたたかな姿勢が求められているようだ。

text by 倉田楽

※次号では、インタビューの〔後編〕をお届けします。ご期待ください。
著書紹介
「iバイオテクノロジーからの発想 −進化する技術文明−」 発行:PHP研究所 価格:660円+税 iモードに代表されるIT、ヒトゲノム解析に象徴されるバイオ技術。この二つの技術の融合した社会は次にどのような文明を生み出していくのか。そこに生きる人間にはどのような発想が必要なのか。筆者はそれを平明な文章で解きほぐす。工業社会から複雑系社会へとパラダイムシフトが急速に進行している現在をとらえ、複数の専門分野を習得した「マルチタスク型人間」の必要性を説きながら、21世紀の行方を展望する一冊。





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