蔡 兆申 
(ツァイ ヅァオシェン)さん

1952年2月8日生まれ。 1975年カリフォルニア大学バークレー校物理学科卒業。1983年ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校 物理学博士。同年10月NEC入社。現在NEC基礎研究所 主席研究員、および理化学研究所チームリーダー(兼務)、アメリカ物理学会フェロー。これまで主にジョセフソン効果、単一電子トンネル等の巨視的量子効果の研究に従事してきた。

量子コンピュータ研究の最前線

私達が生きている日常と量子的な世界をつなぐ、 具体的な装置としての量子コンピュータ。実現すれば、 現在のスーパーコンピュータでさえ解けない問題をクリアできると言われている。 世界中の研究者が取り組むチャレンジングなテーマだが、 実現へのロードマップは、確かなものとして存在していない。 しかし、いくつもの研究提案が生まれては消えるなかで、 現在、ようやく足がかりと言えるようなものが見えてきたようだ。 今回は、日本の量子コンピュータ研究の第一人者である、 NEC基礎研究所主席研究員及び理化学研究所チームリーダー、 蔡兆申氏に、量子コンピュータ研究の最前線についてお話を伺った。



NEC筑波研究所
設立:1989年
概要:神奈川、東京、茨城、滋賀、奈良など全国に7カ所ある、NECの国内研究開発拠点のひとつ。量子ITのほか、カーボンナノチューブ・燃料電池などのナノテクやバイオITなどの基礎研究領域を担当。 革新的な材料・デバイスを創造すべく“限界への挑戦”に取り組んでいる。

量子コンピュータの研究現場

____量子コンピュータは、現在何通りかの方法で研究されていますが、蔡先生が量子コンピュータの研究に入るきっかけは何だったのでしょうか?

私の専門は元々、超伝導の研究です。これは非常に巨視的(人間の感覚で直接に識別しうる大きさ)な量子系なんですね。20年程前から超伝導系を使ったコヒーレンス※1の研究をみんながやろうとしていたのですが、うまくいきませんでした。うちの研究室では、電荷を使うという他とは違った視点から研究していて、これが1999年にうまくいったんです。で、気がついてみると、これって量子コンピュータにつながらないかという話になったわけです。

____世界の中で、量子コンピュータ研究における日本の位置というのはどのあたりにあるのでしょうか?

※1 コヒーレンス…複数の光子や電子が全て同じ量子状態を取っていて、あたかもひとつのように振る舞うこと。ジョセフソン接合の場合は、何億という数の電子が存在しているが、これらがみな同じ量子状態を取っている。コヒーレンスは量子力学に特徴的な現象である。

 やはり日本というのは研究者が少ないですね。研究グループはアメリカが多くて、微視的な系(人間の感覚で直接に識別できない微小な大きさ)も多い。巨視的な系ではヨーロッパが目立っていましたが、アメリカは最近はバランスよく巨視的な系も行おうとしています。お金の出所は、NSF(全米科学財団)とかいろいろあるわけですが、ARDA(Advanced Research and Development Activity)というのが一番資金が多くて、NSAもCIAもここに出している。ヨーロッパの主な所もやはりARDAでファンドされていますね。日本では、昔からやってきたグループというのはNEC/理研とNTTなどですけど、今立ち上げ中という新しい参入グループもあります。

 研究者の心理は、量子コンピュータの実現によって、お金が儲かるからやろうという人はあまりいなくて、ずっと研究してきたことを、未解決の問題に向けてやらせてほしいという感じです。最終的なターゲットがすごい遠くて実現しにくいから、やらないでおこうという感じではないですね。ただそれだけではお金をもらうことはできないので、経済的、社会的にこんなインパクトがあるというストーリーを作って提案することはあるかもしれません。私の研究は、「巨視的量子コヒーレンス※1」というものですが、そう言うよりは「量子コンピュータの実現」というストーリーを描くと、経済的・社会的な意味合いがわかりやすくなるんです。

巨視的な系の可能性

____量子的な現象というのは、非常に小さな世界で起こっていることのように思いますが、巨視的というのは、例えばどのぐらいの大きさを指すのですか?

※2 ジョセフソン接合…2個の超伝導体の間に絶縁体をはさんで接合したもの。ジョセフソン接合に電流を流すと、ある電流値までは二つの超伝導体間にトンネル電流が流れるが、これを超えると二つの超伝導体間に電圧が発生し、それに比例した波数の振動電流が発生する。量子力学の基礎的な部分を研究する装置として、またセンサーやトランジスタなどの応用として、このジョセフソン接合は多用されている。

 ジョセフソン接合※2は巨視的な量子系の典型例ですが、これを例にとると、大きいものでは、ミリメートルくらいからのものもありますよ。典型的なものでは数十マイクロぐらいです。ジョセフソン接合を使い量子ビットを作る場合は大きさやカップリングの強さ、量子ビットのエネルギー、電荷と磁束の自由度などを比較的自由に設計でき、いろいろなアイデアが試せるというメリットがあります。

____どこまでが重ね合わせや絡み合いといった量子力学の非日常的な性質が強く現れて、どこからが私達の日常生活にあるような古典物理的な現象が現れてくるのでしょう。

 それは重要な問題ですよね。いわゆる量子力学における観測の解釈の問題。一昔前のコペンハーゲン解釈※3によると、結局、人間の意識の作用が量子状態を壊し、古典状態を作るという。しかし、うちの実験でよくわかるんですけれど、量子ビットというのはすごく狭い範囲の中にある。そのすぐ隣に観測機がついてて、電極に電圧をかける。そこに電子がトンネルすると、もう量子の世界はおしまい。ここからが古典の世界というわけです。

____技術的にはどういう困難があるのでしょうか?

※3 コペンハーゲン解釈…量子力学のひとつの解釈。20世紀前半に量子力学の確立に貢献したボーアやハイゼンベルグたちの考え方が基になっている。電子や光子の振る舞いは、粒子の側面と波動の側面の両方があるといった日常の常識では受け入れがたい内容のものだった。しかし、個の解釈を支持する実験はいくつも得られている。なお、物理学で直感的なイメージを大切にしていたアインシュタインは、このコペンハーゲン解釈に強く反発した。
※4 デコヒーレンス…コヒーレンスが壊れること。つまり、それまで同一に振る舞っていた複数の光子や電子が、てんでばらばらの量子状態に変わってしまうこと。

 量子コンピュータには、「デコヒーレンス※4」という大きな壁があります。量子の世界はいったん壊れると、元の量子状態には戻らない。不可逆的ということですね。量子コンピュータが本領を発揮できるのは、デコヒーレンスが起こるまでの非常に短い時間のあいだだけで、デコヒーレンスが起こるとその寿命が尽きてしまう。この問題は解決されていなくて、研究面では一番面白いところです。応用面では、量子コンピュータを実現するうえでも一番難しいバリアなんです。だからそれだけ有意義な研究なわけです。

 巨視的な系ではデコヒーレンスの時間が速いのではないかという危惧がありました。われわれの実験では、最初は100ピコセカンドくらいで、もうちょっと賢く実験するとマイクロ秒くらいになるという結果が出ています。したがって、心配していたほどに短いデコヒーレンス時間ではない。ただ、それは1ビットの系で、それ以上大きな系になった時、デコヒーレンス時間がどうなるか、これから研究をやっていかなくちゃならない。実験的にはデコヒーレンスの主要な原因がだんだんわかってきまして、デコヒーレンスを長くするような方針も立ってきます。まだ、わからないことはあるにせよ、ある程度のところまではいくのではないかと思っています。

量子コンピュータ研究の行方

____1ビットで動いて計算をしている段階では、どういったことができるのですか?

 まあ、簡単な計算はできるのですよ。グローバのサーチの計算※5とか、2ビットでできるんですが、今のコンピュータと比べてすごいということはないのです。ただ、2ビットの古典計算機と比べれば、少ない計算ですむという点ですごいかな。

※5 グローバの計算…量子コンピュータのために考え出されたアルゴリズムのひとつ。通常、N個のファイルを検索して目的のファイルを見つけるには約N/2個のファイルにあたってみる必要があるが、このアルゴリズムを使用すると√N個のファイルをあたってみるだけでよくなる。つまり、ファイルが1万個の場合、通常では約5千個のファイルをあたらければならないところが、100個のファイルだけですむ。このアルゴリズムは量子コンピュータだけでしか再現できない。
※6 ムーアの法則米インテル社の設立者であるムーアが1965年に提唱した、半導体技術の進歩に関する経験則。半導体チップの集積度は、およそ18〜24カ月で2倍になるというもの。ただし、これは科学技術的な裏づけがあるのではなく、この法則を満たすことを目標にして、経済、産業、技術などの様々な面から努力がなされているからにほかならない。

____数百ビットの量子コンピュータが実現可能になるまでには、どんなロードマップを予想されていますか?

 例えば、今のデジタルコンピュータの集積化のロードマップになっている「ムーアの法則※6」を例に取ると、集積度は3年間で4倍になるわけですね。つまり10〜20年くらいということになりますよね。しかし、量子コンピュータのロードマップを考える場合、デコヒーレンスという従来のコンセプトにない要素があって、ムーアの法則のように順調に進化し続けることは難しいかもしれない。ひょっとすると、成長が頭打ちになるかもしれない。

 しかし、新しい概念が出ると、たちまち桁違いな力を発揮するということがあるかもしれません。すべてがガラッと変わってしまう。例えば、前世紀には原子爆弾の話がありました。それまでより8桁違うエネルギーが得られるという理論でしたが、ヨーロッパの科学者は、当初そんなの実現できるはずないと言っていたんですね。しかし、マンハッタン計画※7が立ち上がると、あっという間に実現してしまったわけですが。

____現在、何か劇的に状況を変えてしまうような兆候はありますか?

 最近よく言われているのは、アディアバリック量子コンピューティング(断熱的量子コンピューティング)というまったく新しい理論です。例えば、巡回セールスマン問題※8というものがあって、50の都市をセールスマンが回るわけだけど、3日間で全てを回りきれる解があるかないか。いわば最適化の問題ですが、これが現在のスーパーコンピュータでは簡単には解けない。実はこの種の問題の解は、ある物理系の最小エネルギー状態(基底状態)に相当することがわかっている。しかし、実験でこのような問題を解こうとすると、最終的な解に行くまでに、変な所でエネルギーが局所的極小値を持つ状態に引っかかって、間違った解になってしまう。アディアバリック量子コンピューティングでは、このような局所的極小状態につかまることなく、そこから量子的トンネルにより脱出するようなアプローチを考えているようです。普通の量子コンピュータではデコヒーレンスの問題があったわけですが、この方式では、理論上は解けてしまう。ただ実際にやっていくと、どこが問題でどこがネックかが、また見えてくるでしょうね。

※7 マンハッタン計画…1942年米国でルーズベルト大統領の決定により、原爆生産を目的として開始した計画。今回の内容に関していえば、この計画には二つの側面がある。一つ目は、科学技術のプロジェクト化についてである。周到な計画立案、機密管理、資金と人員の大量投入。この計画は科学技術の大型プロジェクトの遂行の手本として知られている。二つ目は、相対性理論や量子力学といった一見すると非日常的な理論が、応用という形で良くも悪くも社会に多大な影響を与えうるということである。
※8 巡回セールスマン問題…数学で解くのが最も困難だとされているNP完全問題のカテゴリーに含まれる問題。「ある出張セールスマンが、受け持ちの都市を全て訪問して、終わったら戻ってこなければならない。同じ都市を二度訪問せずに、最短距離で全ての都市を回る経路をもとめられるか」。この問題には有効な解法はなく、手当たり次第に可能性のある答えを試すしか方法はないとされている。この問題は都市数が増えると、現在のスーパーコンピュータでも答えを出すのに果てしない年月が必要とされている。

____量子コンピュータは、アルゴリズムも、ハードも、まだ方法が絞りきれていないのですね。けれど大きな発見があれば、とてつもない勢いで進んでしまうかもしれないという可能性を秘めているわけですね。

 今の量子コンピュータを見ていると、さすがにまだマンハッタン計画のように集中してパッと実現してしまう時期にはきていないと思います。まだ集中するまで問題点が煮詰まっていないというか、どの系にすればよいか絞りきれていないというか。現時点は、でかいプロジェクトに進行するための、もうひとつ前の段階という感じですね。

日常生活と量子コンピュータ

____量子コンピュータには、数学的難問、さらには社会的に未解決の問題を解いてしまうような可能性があるようですが、一般の人が量子的なコンセプトを理解するのは、なかなか難しいようです。

 日常生活に出てくる現象というのはぜんぜん量子的ではないので、日常生活だけではさすがに理解できないでしょう。われわれ物理学の研究者は、若い時に、大学でこういうものだと教え込まれているので、しょうがないなあと思いつつも量子的なコンセプトを受け入れています。ところが、突然、一般の人に量子力学を説明すると、そんなとんでもない、ということになるのです。

____蔡先生でも、量子力学の特徴である「重ね合わせ」などを直感では認識できないのですか?

※9 多世界解釈…提案した物理学者に基づいて、エベレット解釈とも呼ばれている。コペンハーゲン解釈に抵抗して投げかけられた。量子力学のわかりにくい現象のひとつとして重ね合わせの状態があるが、エベレット解釈によると、可能性のある複数の状態はそれぞれパラレルワールドに存在しているとされる。たとえば、シュレディンガーのネコを観測すると、生きているか死んでいるかのどちらか一方に収束するというのがコペンハーゲン解釈。一方、観測すると、生きているネコを見ている自分がいる世界と、死んでいるネコを見ている自分がいる世界とに枝分かれするというのがエベレット解釈。

 人間の脳というのは量子的な思考になじまないですね。アインシュタインでさえも決して理解できなかった。ファインマンも、そういうのを考えるのはいいことだけど、そういうのを人間の常識で理解しようとしても理解できないから時間の無駄だと言っているほどです。ただ、そういうものがあるんだよということは、一般の方は普段は気づかないわけですけど、量子コンピュータをきっかけに、教育的な話として量子力学を社会に浸透させるいい機会だと考えています。日常生活での常識が唯一の真実ではないんだよ、真実というのは、人間の脳が考えられるものの他にもいろいろあるんだよと。ほとんどサイエンスフィクションのような、多世界解釈※9というものもあるわけですね。あと、アインシュタインが嫌っていたEPR、つまり絡み合った状態。量子力学の根底にはパラドックスみたいなものがいっぱいある。そういうものが現実の世界にあるんだという可能性は、普通の人にも認識してほしいと思います。

____パラドックスはパラドックスのままで…。

 確かに私たちの日常的感覚からのパラドックスは、実はパラドックスではないというのがミソ。けっして量子力学は間違っていない(我々が知りうる限り)。人間の常識から見るとパラドックスに見えるというだけで。おかしな言い方だけど、パラドックスだと思っている人間の脳のほうが間違っている。やっぱり人間の脳の常識では説明できないものなんでしょうね。

____とすると量子コンピュータは、私たちが認識できない非常識な世界にアクセスをして、そこの世界で導かれた答えをもらうというわけですか。

 量子コンピュータの基本的な発想は、日常生活とまったく別な世界を直接利用してしまおうというのだからすごいよね。

どうもありがとうざいました。



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