15世紀初頭のアンコール廃都から数世紀の間、自然の浸蝕と長きにわたる戦乱状態、盗掘などによる人的破壊で、危機に瀕していたアンコールワット遺跡群。このカンボジアの精神的象徴である偉大な遺跡の修復作業を、日本人が支えていることは余り知られていない。シェムリアップ周辺のアンコール遺跡群は、1992年ユネスコ世界遺産に指定された。この年、国連の支援のもと、日本はカンボジアでの平和維持活動に着手する。また1994年、両国の関係を強化するために、早稲田大学の中川武教授を団長とした「日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)」が結成された。以来、遺跡の重要箇所の保存修復活動および、地元スタッフへの技術教育にあたる彼らを、現地に訪ねた。



一日の観光を締めくくるスポットとして人気の、ブノムバケンの丘から見たアンコールワットの夕景。ロマンティックな雰囲気に水をさすように観光客がどんどん集まってくるが、気づかないカップルも多いようだ。

JSAプロジェクトについて、中川団長はこう語る。「政府による開発援助は経済発展に主眼をおくことがほとんどですが、これは文化的なプロジェクトです。というのは、アンコールはカンボジアにとって、莫大な経済価値をもっている。周辺のホテルで朝食をとれば、あらゆる言語が聞かれることからもわかるように、世界中の観光客をひきつける力があります。ここシェムリアップでは、住民の7割以上が観光産業に従事しています。つまりこの国最大の資産なんですよ」

具体的には、どんなところを修復しているのだろう。「四面尊顔塔で知られるバイヨン寺院では、一部を解体・再構築しながら北経蔵を洗浄し、修復し、強化しました。このプロジェクトは’99年に完了し、現在は’05年完了をめざして、バイヨン寺院全体を再生させるマスタープランに取り組んでいます。同時に、遺跡群の中でも最大にして最も名高いアンコールワットの、最外周壁内北経蔵の補修作業も行っています。ほかにアンコールトム遺跡群のプラサット・スゥル・プラットでは、傾いて危険な状態にある12の塔の保存修復にもあたっています。ラテライトは、熱帯・亜熱帯地方によく見られるアルミニウムや鉄を豊富に含む赤岩ですが、このような地質構造の修復活動はこれまでほとんど例がなかったのです。今私たちは、N1タワーと呼ばれる塔を完全に解体し終えたところですが、これをもとに、今後他の塔の補修を進めていきます」

その現場を案内してくれたのは、早稲田大学では中川団長の5年後輩にあたる佐藤康治所長だ。「この塔は石のブロック数にして地上2000、地下600のラテライトから成っています。今の時代であっても、非常に大掛かりな建築ですよ。当時は、石や滑車、木材などを輸送するために、広範な運河のネットワークがあったそうです。問題を引き起こす一番の原因は、乾季と雨季に土台が動くことで、地下水面の変化がこれを悪化させます。このようにして不安定になった構造を、何とかしなくてはなりませんでした。N1タワーの解体作業は、2年をかけて慎重に行いました。あらゆるプロセスを経て問題とその原因を見極め、ブロックを修復あるいは交換し、全パーツをナンバリングした上で記録するなど、遺跡を再築するために、万全な準備を整えました。修復は骨の折れる道のりです。石のひとつひとつを隅々まで調べ、穴があればラテライトを含む強化剤を注入して埋めていきます。私たちは、可能な限り同じ素材を使う方針をとっていますが、再構築に耐える安全と強さを与えるために、石の中にステンレススチールの棒材やボルトを入れる場合もあります。いわば巨大なジグソーパズルですね」


アンコールにあふれる多くのモニュメントは、近寄って見ても遠くから眺めても、私たちの目を楽しませる。バイヨン寺院の54の塔と216の顔のレリーフは、ことに圧巻だ。全景もさることながら、時の流れをたたえるアートワークのディテールは、訪れる者の心を奪わずにおかない。装飾は手がこんでおり、彫り物が施されていない部分は2センチとないほどだ。

アンコールワットの北経蔵の高い足場の上で、石の交換作業を監督しているのは、愛知県から来ている石匠、山本氏だ。この有能で気さくな現場監督は、地元の作業員チームの上に立ち、指示を与えている。レリーフが施された石は、磨いたり削ったりして、もとのアートワークになじむようはめていく。山本氏は、当初はそうしたエイジング(古く見せるの技術)に地元の職人が異議を唱えたものだと笑顔を見せ、「なくなった石を埋めるときにすごく難しいのは、もともとがどんなデザインだったのか、複雑で予想もつかない場合ですよ」とつけ加えた。

アンコール遺跡群のデザイン彫刻は、そのほとんどがヒンズー教にモチーフを得て、クメール風に進化させものだ。その美しさは、ごく無理のない自然との融合にある―水、石、そして光が、文明の中心であるこの地に、壮麗な趣をかもし出している。そのエコロジー感覚は、きわめて進取的なものだ。意図的にわかりにくくしたのか、寺院は迷子になりそうなほど広く、装飾の過度なまでのディテールへのこだわりが、全体としての壮観を際立ったものにしている。これに和んだ雰囲気をそえるのが、顔だち、表情、ポーズなど、ひとつひとつ微妙な差異を誇って並ぶ彫刻たちだ。これらのピンクの砂石で造られた彫刻、ことにバンテアイ・スレイ寺院のものは、世界でも代表的と言われている。

外観は複雑な印象だが、アンコールの建築自体は比較的単純と言っていい。モルタルを使わずに石が積まれ、そのどっしりした重量で全体の安定が保たれる。修復作業には労働力と重機、そしてハイテク技術が欠かせない。とりわけ重要な仕事はCADとVector Worksのソフトを使い、Macで行われる。最近では、JSAが手がける遺跡の精密な計測と、立体モデル作成のため、特殊なスキャン器材とともに東京大学の特別チームが送り込まれたそうだ。気球まで打ち上げてデータ収集したという。


アンコールワットの歴史

9世紀から14世紀にかけ、クメール王たちが広大な領土を統治し、現在のベトナムからベンガル湾、中国の雲南にまで勢力を広げていった。現在300ほどの寺院や宮殿が残っているが、その多くが森に埋もれており、訪れることができるのは約30だ。 中でも最も有名なのがアンコールワットである。1858年フランスの学者アンリ・ムオが発見して世界に知らしめるまで、森にすっかり埋もれていた。1861年、ムオはラオス辺りで35歳にして死去している。彼の墓石もまたジャングルに埋もれ、1990年に偶然発見されることになったのは、何とも奇遇である。「アンコール」は街や首都を、「ワット」は寺院を意味する。30〜40年をかけて、17,000〜20,000人の手によって建設された。ヒンズー教の保持神ビシュヌに献じたものだが、エジプトのピラミッド同様、偉大な帝王の力を象徴する葬送寺院でもある。
武士とアンコール
  • アンコールを訪れた最初の日本人として記録されているのが、森本右近太夫という肥州(今の熊本・長崎・佐賀)の武士である。1632年、アンコールワットの回廊の柱に、墨で「数千里の海を越え」と感激の思いを残している。
  • 現在のカンボジア首都であるプノンペンから西には、日本人村ウドンがあり、森本もここに住んでいたと思われる。当時の鎖国政策にもかかわらずアジアに冒険に出た日本人は少なくなかった。徳川幕府が認可した朱印船のみが海外渡航を許されていた時代でさえ、日本人村が造られている。
  • 冒険心に富んだ武士は、日本のコロンブスさながらだった。アンコールワットは、『平家物語』に出てくるが実際にはインドにある重要な仏院、祗園精舎に違いないと考えられた。
  • 日本からアンコールへの観光客は急増している。昨年は日本カンボジア外交50周年の一環として特別直行便が運航され、1週間に2000人以上がシェムリアップへ飛んだ。

近年の人気により、アンコールの保存の重要性はいよいよ高まっている。政治が安定したことにより観光客が増加し、遺跡の保存に国内外の支援を得られるようになった。クメールルージュ(旧ポルポト派)が恐怖政治を行った70年代、アンコール遺跡群の将来もまた、危ぶまれた。しかし皮肉なことに、クメールルージュが政権を失った’79年、国際世論を知る軍隊は、武力で追い出される恐れのないアンコールの寺院を根拠地として、盾に使ったのである。このようにして過去の破壊者は事実上の保護者に転じ、彼らの伝説的な非情さは略奪者の取り締まりに発揮された。とはいえ、クメールルージュの生き残り軍が行った“保護”には、残念ながら定期的なメンテナンスは含まれていなかった。雨が多く植物の生長が早い熱帯気候にある遺跡にとって、大きな試練を与えられた時期であったといえるだろう。


観光客がワクワクと休暇を過ごす間にも、地元民には普通の毎日が続く。観光業の影響は、地域に急速な変化をもたらしている。新しいものと古いものの共存は楽ではないかもしれないが、人々に納得のいくバランスをとっていくことは可能だろう。


時代は変わり、カンボジアは平和な時代を迎え、現地の地雷はほとんどが除去され、アンコールの遺跡はゆっくりと本来の美しい姿を取り戻しつつあり、観光客が訪れるほどにまでに回復した。アンコールのあり方は、カンボジア全体の運命を映している。この傷ついたジャイアントに健康を回復させることは、この国を癒し、再建する努力そのものといえよう。


日本とカンボジアの協力は、さまざまな試練を耐えたカンボジアの歴史、そして新たな平和を、アンコール遺跡群の姿に伝えていくだろう。


Text & Photo by:マイケル・マクダナフ




JSA website
http://angkor-jsa.org/jsa.htm

JSAのプロジェクトでは約150人の作業員が雇用されているが、その全員が地元民で、うち30人が考古学、建築学、修復などの専門技術を学んでいる。さらに毎年ひとりの専門家を2カ月間、早稲田・奈良・京都大学へ留学させているそうだ。そうした専門家の多くが、佐藤所長が1995〜1998年にJSAプログラムを教えた、王立プノンペン芸術大学の卒業生だ。またオフィスビルでは、30人のスタッフが働いている。JSAではアンコールの展示館を維持しながら、アニュアルレポートや雑誌『JSA NEWS』を発行している。シェムリアップのJSAオフィスで一般市民、他の国際チーム、観光客に向け、定期的に講演や会議を開催するほか、年一度東京でシンポジウムを開いている。


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