量子コンピュータは人間に何をもたらすのか - 未来への質問状

2004年9月、日本の研究グループが三者間の量子テレポーテーションに成功したというニュースが世界中を駆け巡った。この成果は量子コンピュータの実現に向けた着実な一歩になるという。現在、世界中で行われている量子コンピュータ実現に向けた多数の研究活動の中で、今回の成果はどのような意味を持つのだろうか。研究チームの東京大学大学院古澤明助教授にお話を伺った。

東京大学大学院 工学系研究科 助教授
工学博士 古 澤 明(ふるさわ あきら)さん

1961年、埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。 84年東京大学工学部物理工学科卒。86年に同大学院修士課程を修了し、日本光学工業(現ニコン)入社。98年カリフォルニア工科大学において、最も基本的な量子エンタングルメント制御プロトコルである決定論的量子テレポーテーション実験に世界で初めて成功。 この実験結果は1998年にScience誌の10大成果に選出された。2000年から現職。


(注釈)

三者間のテレポーテーションが成功したことは、
大変大きなブレイクスルーなんです

今回の実験の成功の意義についてお教えください。

量子コンピュータの基本概念は、沢山の量子系をエンタングル(*1)させて制御し、演算をさせることです。量子系二者間のテレポーテーションは、量子系を制御する最小のペアということで、量子コンピュータの実現に向けた一番最初の一歩になります。現在、世界各国で様々な研究者が、量子テレポーテーションを色々な系で試しています。ある物理系で、量子テレポーテーションという一種のプロトコルが実現すれば、その物理系では量子コンピュータが実現できるという証明になるからです。我々が実験を成功させたのは光の系ですが、将来的には量子ドットの系でも量子テレポーテーションが実現されることになるでしょう。

二者間での量子テレポーテーションは既に実現されていたのですが、今回の私たちの実験では、世界で初めて、三者間で量子をエンタングルさせて制御し、使ってみせることができた、それが大きな意義になります。この実験の論文が『ネイチャー』誌の表紙にされていることからも、今回の成功が、世界的にも大きなインパクトを持って受け止められたということがわかると思います。また、『プロナス』(*2)から投稿依頼が来ており、これも、たいへん注目されていることの裏付けになります。日本の研究が進んでいることを世界的にアピールできたと言えるのではないでしょうか。

量子テレポーテーションという言葉を一般の人が聞くと、SF的な意味に誤解してしまいそうですね。

テレポーテーションという言葉に対する誤解はよくあります。我々が使うテレポーテーションとは、情報の伝達形態のことです。一般的に情報転送を考える時、電子メールにしても何にしても、情報の発信側に情報を残しておくことができます。わかりやすいのはファクスで、オリジナルは自分の手元に残って、その複写が相手に届く。すなわち、現在の情報転送というのは、相手にコピーを送信している状態といえます。

ところが、量子状態は量子力学の掟として、元の状況をコピーしておくことはできないんです。じゃあどうするかというと、片方を消して、片方を残す。その状態をテレポーテーションと呼んでいるんです。だから、瞬間的に移動するという意味ではない。「こちら側は消えてあちら側に現れる」ということをしないと、量子力学の法則に反するということなんです。

今回、三者間のテレポーテーションに成功した実験装置は、畳4〜5畳分のスペースにぎっしりと様々な光学レンズが据えられたもの。肉眼では見えないが、微細な角度に調整されたレンズの中を紫外線が通っている。

「二者間」と「三者間」での違いは何でしょう?

まず、二者間では、その二つが「絡み合っているか」「絡み合っていないか」という状態しかあり得ません。しかし、三者間ではその情景が全く変わります。AとBはエンタングルしていても、BとCはしていないとか、あるいは三つはエンタングルしているけれどもそれぞれの二者間を取り出してみるとエンタングルしていないとか、様々な状況があり得るわけです。

今回、我々が成功したのは、「ABC三つで見た場合はエンタングルしているが、どの二つを取り出してもそれぞれはエンタングルしていない」という状況です。これは全く新しいタイプのエンタングルで、更にその状態を動かして制御してみせたことが、従来までとの大きな違いで、より現実に量子コンピュータを用いるための状況に近づいたといえます。  単純に「二者間」と「三者間」というと大きな違いがわかりにくいかもしれませんが、三者間が成功したことは、大変大きなブレイクスルーなんです。例えば、二者間ではネットワークは組めない。すなわち、「三者」はネットワークの最小構成単位なわけで、「2」と「3」というのは大きな概念の違いです。「3」と「4」ではそれほど大きな違いはない。今、アメリカでは128量子ビットで計算するというプロジェクトが進んでいます。我々の実験成果は「128」に至るための最初の「3」という基礎的な部分を固めた、大きな一歩といえるでしょう。

(注釈)

具体的に今回の実験はどういった分野に活用できるのでしょうか。

量子テレポーテーションの具体的な活用法として、暗号の分野、いわゆる量子暗号などが挙げられていますが、正直、我々はそこには興味がありません。ひたすら「2」から「3」、「3」から「4」、と難しい状態を次々に作り出しては「切った、貼った」をやりたい、という感じです(笑)。

それから、よく、量子コンピュータで何ができるか、という話になるのですが、ハード面での量子コンピュータの実現と、ショアが提唱するようなアルゴリズム面での量子コンピュータ(*3)の実現とは別の問題なんです。

コンピュータの世界でよく引用される、ムーアの法則(*4)というものがあります。現実も大体その通りに進んでいて、このまま進むと2015年頃にはLSIの1ゲートの中には電子一個しかなくなってしまい、量子状態を制御せざるを得なくなります。つまり、ハード的側面でいえば、コンピュータのパフォーマンスをあげるためには、量子を制御するコンピュータの開発をせざるを得ないのです。その意味では「電子工学科」がやっていたジャンルを「物理工学科」がやるようになってきたということでもあります。それらの垣根が崩れつつある時代にきているということなのかもしれません。

送信者、受信者、制御者の三者間テレポーテーション

今回の実験では、三者間はエンタングルしているが、個々の二者間はエンタングルしていない状態にある。通常、アリスからボブへの情報通信では、アリスとボブが絡まった状態…つまり、アリスとボブが二者間で情報のテレポーテーションを行える状態にある。今回の実験では、このアリスとボブにクレアを加えて三者にした。彼らは三人で見るとエンタングルした繋がった状態だが、個別の二人を見るとエンタングルしていない。そうなると通常の意味でのテレポーテーションはできないため、例えばアリスからボブにテレポーテーションするのに三人目であるクレアの情報が必要になる。クレアの情報がある場合のみ、テレポーテーションが実現するともいえる。よって、三人目のクレアのことを制御者と呼ぶ。

(注釈)

  • *5 フォトニッククリスタル:

    屈折率が光の波長以下の周期で変化している人工の結晶体。フォトニック結晶と呼ぶこともある。量子光学効果により、結晶体の中の光を制御することができ、量子コンピュータの基礎となるフォトニックデバイスへの応用などが期待される新しい光材料として注目されている。

  • *6 量子ドット:

    半導体原子が数百個から数千個集まった、10数ナノミリ程度の小さな塊。

  • *7 量子ゲート:

    量子状態を制御するもの。量子回路の重要な構成要素の一つ。

量子を安定させるためには非常に低温の状態が必要だという話を聞いたことがありますが、先生の実験もやはり超低温下で行っているのですか。

私の実験では全くそんなことはありません。常温で行っています。

超低温が必要となるのは固体系の電子を使う場合です。電子は物質の器の中に入っていて、その中の原子というのは、どんな低温の下でも震えている。温度という概念は原子の震えなんです。その状態をできる限り安定させるためには温度は低ければ低いほどいいので、その結果、超低温での実験になるんです。しかし、我々が使っているのは光です。光の量子状態は、ミラーで光を跳ね返している限り壊れない。量子状態を保持するという観点では、光は圧倒的に扱いやすいんですが、それは裏を返すと相互作用が弱いということでもある。状態を変えようとするのには非常に多大な労力が必要なんです。そういう点では、固体系の方が状態を変えやすいので制御はしやすい、といえます。将来的な使い方としては、光子系はどんなに長い距離が離れていても量子状態が保持できるので、長距離電送して遠く離れた量子コンピュータを繋ぐことなどに利用されることになるでしょう。ただ、光も全く制御ができないわけではないし、光だけを使ったフォトニックなコンピュータも、小規模なら実現できるんじゃないかと思います。最近ではフォトニッククリスタル(*5)など新しいものも出てきています。実験装置を見ていただいてもわかると思うんですが、現時点では、たった三者の量子を制御するのにもやたらとでかい装置が必要です。これが掌サイズになったら革命です。今あるコンピュータも、最初は真空管であったり、リレーのスイッチであったりして、体育館くらいの大きさの中で非常にプリミティブな計算をしていた。それがどんどん進化して、半導体になりLSIになってダウンサイジングして今に至っているわけです。量子コンピュータも多分、この流れと一緒です。最初は、ばかでかい装置で単純な計算を行い、あるタイミングで、何かしらのブレイクスルーが起きる。それがフォトニッククリスタルなのか量子ドット(*6)なのかはわかりませんが、どんどんコンパクトになっていくんでしょう。現在は、その体育館世代なんだといえます。

現時点の量子ゲート(*7)は全ての量子演算を網羅しているわけではないので、もう一段階ランクが上の、ユニバーサルな、全ての量子の為のゲートを作りたい。それが実現すれば、沢山の量子ビットでどんな演算でもできるようになります。それがユニバーサルな量子コンピュータということです。

(注釈)

  • *8 PR相関(アインシュタイン・ボドルスキー・ローゼン相関):

    二つの量子がエンタングルメントした状態のこと。1935年にアインシュタイン、ボドルスキー、ローゼン(EPR)の3人が連名で発表した論文にちなんでこの名が付けられた。三つの量子の相関はGHZ相関(グリーンバーガー・ホーン・ザイリンガー相関)と呼ぶ。

  • *9 波動関数:

    シュレディンガー方程式から導き出される、量子力学で用いられる定式。ただし、実際に量子的な波動を観測することは不可能なため、その存在の有無は現在も解釈が分かれる。

量子力学は日常の物理常識では理解しがたいものですが、一般の人々も、こうした量子力学的なものをもっと理解していく必要性があると思われますか?

私は、そもそも量子力学というのは「わからないもの」「人間には理解しえないもの」だと思っています。アインシュタインでも理解できなかったわけですしね。

テクノロジーが進歩して何が変わったかというと、それまではEPR相関(*8)の実験ひとつにしても、「思考実験」といって、頭の中でシミュレーションして実験するだけの、空想の中のものでしかなかったわけです。それがテクノロジーの進歩によって現実の実験として可能になった。けれど、それで量子力学のことを我々がわかって来たかというと、全然そんなことはない。

量子力学というのは「解釈すべき対象ではない」というのが私の認識です。例えば「波動関数(*9)は存在するか」という議論がありますが、これは全くナンセンスな問題で、私はそんなものは無いと考えています。じゃあ、量子力学とは何かというと、それは「現時点で人間が自然現象を説明するのにもっとも詳しく表現できる言語」だと思います。だから、言葉自体に解釈は必要ない。「わたしは●●する」と日本語で喋る。どうして「わたし」と「●●」の間に「は」が入るのか、と聞かれても「それはそういう決まりです」と答えるしかない。量子力学も同じです。観測すると波動が収束するのはなぜか、と聞かれれば「そういう決まりだから」と答えるしかない。それが量子力学のルールで、それ自体に解釈を求めてはいけないんです。

自然はもっと深淵なものだけれど、人間の認識はまだそこまで至っていないから、現時点での認識を「言語」にしている。しかも、とても不完全な「変な方言」、それが量子力学なんです。






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