戦争が起きている場所の人たちのことを知りたい。
そして、それを日本の人々に伝えたい。
単純にそう思っていたひとりのジャーナリストに降りかかったふたつの事件。
戦時下のイラクで拘束、そして日本でのバッシング。
想像を絶する体験をした安田純平さんが語る、
イラク戦争の真相、そして日本という社会─。


【プロフィール】

電子版安田純平

http://homepage3.nifty. com/jumpei/
やすだ・じゅんぺい
1974年生まれ。'97年信濃毎日新聞社に入社。
山小屋し尿処理問題や、脳死移植問題などを担当する。
'02年3月、休暇を取ってアフガニスタンを取材。
同年、同じく休暇を利用してイラクも取材。'03年1月、会社を退職し、フリージャーナリストに。
同年2月イラクに入り「人間の楯」と共にバグダッド南部の発電所や浄水所に滞在。
'04年4月14日、イラク・ファルージャ周辺で武装勢力に拘束されるが、17日に解放される。
著書に『囚われのイラク』(現代人文社)、『誰が私を「人質」にしたのか』(PHP研究所)がある。


人質バッシングの虚と実

2004年4月14日、米軍が包囲攻撃をしていたイラク・ファルージャ周辺の取材をおこなっていた安田さんは、武装勢力に拘束され、同月17日に解放された。

「イラクに行った日本人の記者やジャーナリストは、多かれ少なかれ拘束された経験があるんじゃないでしょうか。私みたいなケースは別に珍しくありません。たいていは4、5時間ぐらい拘束されて解放されるんですが、私の場合、丸3日かかったというだけのことです。結果的に解放されるんだったら、1泊ぐらいで帰してほしかった。そうすれば日本であれだけの騒ぎにならずに済みましたから。

ただ、私を拘束した組織にとって、日本政府は敵だという感覚があったのでしょう。日本は、米軍を支援して自衛隊を派遣しているわけですからね。でもそのことと、日本の一般市民とは分けて考えるという気持ちが彼らの中にはあったようです。だから拘束されたときも、私は別に日本政府やアメリカとは関係ないし、銃も持ってないから傭兵でもないということがわかって、帰されたわけです」

安田さんを拘束した組織からは、犯行声明はおろか、何の交換条件もアナウンスされなかった。安田さんの著書によると、彼らは解放の際、安田さんの引き受け先になったイラク・イスラム法学者委員会に対し、「身柄の確認をしただけで、人質にする気はなかった」と話したという。

「拘束されてはいましたけど、食事も毎食チキンが出たりして、客人扱いでした。かなり奮発してますね、あれは。彼らが食べるだけなら肉はなかったでしょう。要するに私がスパイかもしれないので調べただけで、疑いが晴れたから帰したというだけなんです。『アメリカ軍はイラクの民間人を殺すけど、自分たちは絶対にしない』とも言ってました」

解放され、帰国した安田さんを待っていたのは、マスメディアなどによる「人質バッシング」だった。安田さんは戦時下のイラクより、日本社会の方が怖いと話す。

「イラクにいて、爆発で自分が吹っ飛んでしまうのは仕方がないじゃないですか。即死だったら苦しまないですし(笑)。でも日本だと、私がイラクで拘束されたことで、家族が責められてしまう。なんだか日本社会に家族を人質に取られているような感じです。だって『自己責任』と言ってる人たちが、当事者ではない私の家族の責任を追及するんですよ。おそらく日本で言う『自己責任』というのは、家族全員をひっくるめた話になってしまうんです。結局、『自己では責任が取れないんだぞ』というバッシングだったのではないでしょうか。この国では個人というものが認められていないと感じました」

個 人 と し て 、
ジャーナリストとして


フセイン政権崩壊後、急激な物価の上昇や失業などで家賃を払えず、アパートを追い出された人が大勢いた。フセイン政権時代は、家賃の額が一定の範囲内で抑えられていたので、普通に暮らせたらしい。アメリカの占領が行き詰まりを見せている中で、フセイン時代を懐かしむ人々が増えているようだと安田さんは語る。写真はフセインの肖像入り紙幣を掲げて、「サダムは良かった」と話す女性を撮影したもの。

拘束されて、一躍注目された安田さんだが、「売名行為」と言われたこともあるという。

「単なる功名心でイラクに行ったんだろうとも言われました。でも名前を売って何があるんでしょうか。おそらくお金が貰えることだと思いますけど、それだったら会社でサラリーマンをやってた方が儲かるんですよ、間違いなく。ジャーナリストをしていれば、功名心は当然あるわけですが、たとえ名前を売るのが目的でなくても、誰もしていないことをやろうとするのがジャーナリストですから」

安田さんは、それまで勤めていた地方紙の記者を辞め、フリーのジャーナリストとしての道を選んだ。

「イラク戦争はおそらく歴史に残ると思うんです。ひとつの国をまるまる占領する戦争というのは、もう何十年も起こってないんじゃないですかね。産業革命から経済成長を続けてきた中で、最終的に行き着いた戦争だという気がします。そういう戦争が始まる情況に、記者として何らかの形で関与したかったんです。

でも勤めていた新聞社では、休暇であってもイラクに行くこと自体が迷惑だと言われました。何かあったときに会社の名前が出るのがまずいと。それでも、さすがに会社は休暇の使い方まで強制できませんから行きました。そのときはまだ開戦前でしたが、イラクではアメリカからの空爆をずっと受けていたんです。そこで息子さんを空爆で亡くしたという人からコメントをもらったりしたので、発表したかったんですが、それも許してくれませんでした。

確かに新聞社にいた方が生活も安定するし、将来の不安も少ないかもしれない。でも歴史に残るような戦争が始まるときに、現地に行ってそれを直に見るチャンスが自分にあるわけです。そのどちらを取るかという選択を迫られたときに、イラクを選んだんです」

安田さんは、高校生の頃、テレビで湾岸戦争の様子を見て、ジャーナリストを志すようになったという。

「テレビでは爆撃の様子がピカピカ光っているのが見えるだけで、そこに住んでいる人々の様子は全然見えてこなかったんです。だからその光っている場所に行ってみたいと思いました。戦争をしている場所にも人は住んでいますし、そういうところに住むというのはどういう感覚なんだろうという興味がありました。ただ戦争に対して、『怖い』という単純な感覚だけではないと思うんです」

イラクの人たちの心理に触れて

単純ではないという予感は、間違いではなかったようだ。実際にイラクを訪れて、取材を重ねた安田さんは確信を持って話す。

「フセイン政権が倒れた直後に、バグダッドの病院に行ったんですが、アメリカの空爆で脚を失くしたりした人がいっぱいいるわけです。でもそういう人の家族が『アメリカは悪くない。そもそもサダムが悪いんだ』という言い方をするわけです。でもよくよく聞いてみると、日本人の前でアメリカの悪口なんて言えるわけないだろうという話になるんです。日本とアメリカは同盟国ですからね。同じように、フセイン政権が崩壊する前は、イラク人の誰もが彼を絶賛したわけですよ。でもそう言うしかなかったからなんですね」

安田さんの話を聞いていると、浮かびあがってくるのがイラク人たちの、生き抜くためのしたたかさやたくましさだ。

「彼らが信じるのはあくまでアッラーですから。フセインは単なる行政のトップに過ぎないわけです。ですから最終的にフセインを見捨ててもいいと思っているところがあると思う。実際、米軍が攻めてきたときに、逃げた兵士も多かったと聞いています。兵士だったという人に何人も会いました。どこで戦ったのかと聞くと、けっこう危険地帯なんですよ。なんで生きてるんだと聞いたら、逃げたからだと(笑)。要するに死んじゃったら意味がないという考えなんです。イスラム教の中には、信仰を守るためには偽っても構わないという教えがあるみたいですね。生き抜くためならウソをついたっていい。彼らにはそういう最後の逃げ道がある」

イラクという国と人に触れることによって、安田さんは日本との落差に驚くという。日本は爆撃もなく、安全な国ではあるが、別の問題があると話す。

「例えば、今日この取材の場所に着くまでに、私はものすごくたくさんの人とすれ違っていますが、誰とも喋らないのが普通ですよね。イラクに行くとそんなことはありえない。必ず誰かが声をかけてきたりとか、何かの行列に並んでいるときには、前後の人と喋るとか、そういう習慣が今の日本にはないですね。声をかけると露骨に警戒されるじゃないですか。シャットアウトしてしまえば安全かもしれないけど、その分、何も始まらないわけです。警戒しつつも、いろいろと自分で判断して、大丈夫だと思えばもう少し接近したっていいと思うんですけどね。日本人はその辺の判断力がかなり甘いというか、もともと備わっていた人間力が薄まっていると思います」

好奇心と使命感のあいだで


イラク戦争前のバグダッドの遊園地。当時は、夜遅くまで多くの家族連れで賑わっており、「戦争が始まる前に家族で楽しんでおこう」と敢えてやってきた家族もいたという。安田さんは、ここにいると戦争が近づいているとは思えなかったと話す。

安田さんのホームページでは、イラクを訪問したときの写真が公開されている。その中で印象的なのは、遊園地の写真だ。

「ボロボロの遊園地でしたけどね。その中にあるお化け屋敷が面白かった。コースターに乗るんですけど、真っ暗でターンがものすごく強烈で、曲がった瞬間にお化けがパッと光って出てくる。なかなかのものでした。

政権が崩壊したあとにも行ったんですが、残念ながら閉鎖されていました。戦争前は、イラク人は普通に生活していて、夜遅くまで遊んでいたわけです。でも戦争が始まって以降、もうそういう生活はできないじゃないですか。ですからそういったものを記録に残しておきたい。戦争前の風景はもう戻りませんから」

イラクなどの危険地域では、日本の大手メディアに所属している記者の大半は撤退しているという。そういう意味からも、現場を訪れ、リアルな現状を伝えてくれる安田さんのようなフリーのジャーナリストの持つ役割は大きい。

「なんで行ったかというと、実際にこの眼で見たいという好奇心があるからです。そして現地で見て、知った以上は伝える義務があると思っています。そうしないと取材した人に対して義理が果たせない。これは職業以前の問題だと思います」

聞けば、安田さんは、スマトラ沖大地震で甚大な被害を被ったアチェから帰ってきたばかりだという。さらに、機会があれば、またイラクを訪れたいとも語る。戦時下での体験。拘束。バッシング。さまざまな困難を経ているだけに、彼の世界を見る眼は、さらに複合的に、そして人間味溢れるものになっていくことだろう。



 book



誰が私を「人質」にしたのか

「人間の楯」の状況、外務省とのやりとり、日本のマスコミの体質を暴く。 PHP研究所 1,300円+税

囚われのイラク

「拘束の3日間」を含め、安田さんが報告するイラクの戦後復興の現状。 現代人文社 1,500円+税






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