ドイツの首都ベルリンに移り、ダンサー、振付師として活躍する日本人女性がいる。
日本で完成度の高い数多くの仕事を披露してきた川口ゆいさんだ。
「変化する環境の中で、何かとつながろうとして動く感覚」を体現する彼女は、
活動の場とダンスの幅を同時に広げながら、これからどこへ向かうのか―。

川口ゆい | Yui Kawaguchi

1975年神奈川県生まれ。6歳よりクラシックバレエ、10代半ばからモダンダンス、ジャズダンス、ストリートダンス、声楽を学ぶ。20代前半より多数のCM、プロモーションビデオ、コンサート、映画、ファッションショーなどにダンサー、振付師として参加。2001年よりメディア・ドライブ・ユニットcell/66bとのコラボレーションを中心に活動を展開。パフォーマー、映像作家、音楽家らとの共同制作“test-patches”は、世界的なメディアの祭典「アルスエレクトロニカ」などで発表され、高い評価を得る。 2002年、結婚・出産を機に渡独。日本での活動を続けながら、拠点をベルリンに移し、新たな方向性を模索中。

夏目漱石が少女の背中を押した


■ メディアパフォーマンスユニット「cell/66b」による演出が話題を呼んだ『FaustU』のステージより。東京・ヴェルファーレにて

■ 「REM」東京公演時(2004年)の川口さんによる舞台装置のスケッチ

携帯電話、使い捨てカメラ、生命保険、化粧品、ハンバーガー、風邪薬、信販会社、清涼飲料水…。川口さんが振付、出演したCMは数え切れない。しかし、それは彼女の仕事のごく一部に過ぎない。ミュージカル、コンサート、プロモーションビデオ、ダンスパフォーマンスなど、10年間に挑んできた仕事は多岐にわたる。2001年には、「東アジアオリンピック開会式」(大阪ドーム)の振付も手がけた。そんな川口さんがプロのダンサー、振付師を志したきっかけは、意外なことに夏目漱石にあるという。

「幼い頃からバレエを習っていたので、ステージに対する欲求はありました。高校でもダンス部に入っていましたが、当時は創作舞踊というより“ノリと勢いに任せて踊る”というものでした。それでもみんなで振りや構成を考えるのは楽しく、部外でも休み時間にベランダでハードロックをかけて踊っていました(笑)。そんな中でだんだんとパフォーマンス精神は培われていたのかもしれません。

本気で決心したのは、高校3年になる直前です。授業で取り上げられた夏目漱石の『夢十夜』の夢解きをしていくうちに、その時抱えていた問題も一緒に解かれていきました。『そうだ、自分本位でいいんだ!』と迷いがふっきれ、この道に進む確信が持てたんです」

進路を決めかねていた少女の背中を押すことになろうとは、漱石は想像だにしなかったであろう。それでも、現在のスタイルをつかむまで紆余曲折があった。高校卒業後、宝塚の受験予備校に通ったり、ユニットに参加したりもした。

「いろんなユニットにも参加しましたが、ひとつのスタイルに固執することなく、逆にすべての要素を踊りにぶち込めばいいんだ、と思うようになってから今のスタイルになりました」

結婚・出産、そしてベルリンへ

さまざまなダンスや表現活動をミックスして、自分のスタイルを磨きあげてきた川口さん。では、踊りを通して表現したいこととは何だろう。

「環境の変化を取り込んで変わっていく身体の強さ、そのエネルギーにひかれる」と、彼女は独自の言葉で身体感覚を表現する。

「たとえば片腕を失ったら、両腕があった頃の自分ではいられなくなるし、言葉をしゃべれるようになったら、言葉がわからなかった頃の自分とは違ってくる。身体の変化は心の地図を変え、世界を見る眼が変化し、新しい刺激を受けます。身体は常にそうやって変化する環境の中で、何かとつながろうとして動いている気がします。その淘汰できない、刹那的な感覚をいろんな形で表現したいと思っています。

私が映像や装置をよく使うのは、日常的にメディアツールを使うようになってから急激に発達した感覚を表現する場を作るのに、今のところ一番ピンとくるからであって、特にこのスタイルにこだわりはありません」

それでは、順風満帆であった最中、結婚・出産に踏み切った際の葛藤はどのようなものだったのだろうか。

「キャリアが一度途絶えることに悩みはありませんでしたが、 体型やテクニックが維持できるか、感性が鈍ってもう表現できなくなるのではないか、という不安はありました。でも、そこでダンサー、振付師の人生が終わるものなら、それまでだと思いました。そして結婚・出産という変化を拒むほうが、不自然だと気づきました」

川口さんは他人の意見に左右されるのではなく、自身の内面から湧きあがってくる素直な言葉に耳を傾けた。

「他人が見ている私はほんの一時しか映っていませんが、私は一生自分の人生につきあわなければいけません。人生の分岐点に差しかかると、自分の人生が自分に何を求めているのかを注意深く見つめなければなりません。そんな時、他人の意見や世間的な見解はたいていアテにならないし、そこで自分を軽んじるとどんどん迷路にはまっていくように思います」

出産直前まで仕事を続け、ドイツ語もまったく話せない状態でベルリンへ移住。「すべてリセットという感じでした」と川口さんは笑う。その潔さは、身体感覚にあふれた彼女の反射神経によるものかもしれない。

「東京を離れたことが、精神的にとても良かったようです。白昼夢から醒めたような感覚を味わいました。子供の存在もベルリンの環境も、すべてが新鮮で価値観も大きく変わりました。そして、その刺激はやはり踊りへの欲求に結びつき、再びイバラの道へ向かうことになりました」

異文化との出会いが心身を鍛える

■ 愛息のAYKO(藍光)とカフェでくつろぐ

■グラフィティ天国、ベルリンの街角で

■ AYKOとベルリン市内の公園で遊ぶ

ベルリンに移住した川口さんは、多くの刺激を受けた。多様な民族が集まるヨーロッパには、さまざまな言語が飛び交っている。「芸術は言語を超える」とはいえ、普段のコミュニケーションには、その国の言葉を操るスキルが欠かせない。

「驚いたのは、ヨーロッパでは多くの人が平気で3〜4カ国語を話すことです。外国語は特技ではなくて、必要なツールにすぎないんですね。 特に貧しい東欧諸国では、多くの人が西側に移り、チャンスをつかむために必死で外国語を勉強しています。ベオグラードに行った際、街の旅行代理店の女性が、母国語のセルビア語に加えて『英語、フランス語、イタリア語も話せますよ』と話したのには、びっくりしました」

ヨーロッパでは“異邦人”である川口さんには、異邦人なりの発見があった。

「外国語を学ぶと、その国の空気が理解できるような気がします。たとえばどうして家の形がこうなのか、といったことさえもその国の言葉を知ることでわかってくるのです。日本語では名づけようのなかった感覚を外国語の中に発見したり、今までなかった思考回路が開拓されたりするのはおもしろい体験です」

そのまなざしは、おのずと日本との文化の差異に向けられる。

「ドイツは8カ国と国境を接しているだけに政治への関心が高く、異文化との共存の仕方がとても冷静です。同時にさまざまな生き方が受け入れられており、たとえば日本だとホームレスに対して“敗北者”のような扱いがなされていますが、こちらでは“社会的被害者”という印象の方が強いですね。だから道行く人も彼らと言葉を交わすし、お金や食べ物を自然に手渡しています。どんな生き方であっても尊重されるべきだという思考が強く、それが日本やアメリカのような競争社会と大きく異なる点です。人生の豊かさとは何かを考える上でとても刺激になりました」

異国での刺激が川口さんの血となり、肉となった。今後の活動にも新展開がうかがえる。5月にベルリンで開かれた公演では、ソロ作品を披露した。

「ソロはひとりよがりに陥りそうで、ずっと避けていましたが、ポーの『黒猫』を読んだ時にイメージが湧いて、ぜひ挑戦したくなりました」

作品は、『黒猫』のその後を描いたものだ。殺された妻は情報としてモニターの中に留まり続け、男の“魂らしきもの”は次の肉体へと旅を続ける。その肉体がたどり着くのはどこなのか。川口さんは作品の意図を語る。

「“幻”をテクノロジーによって表現し、日常の位置に引きずり出しました。それによって、幻は心が起こす行動を期待した身体によって作り出されているのかもしれない、という問いかけをしたのです」

WEB

MENDORA.COM
HP http://www.mendora.com/

6月にはベルリンで催される「日独センター創立20周年記念企画“Tag der offenen Tur”(「開かれた扉の日」の意)」の振付を担い、出演する。こちらは照明もない自然光の中で、蓄音機がまわっているような、少し牧歌的な感じの作品だという。

かつて高校の授業の休み時間に、学校のベランダで無邪気に踊っていた一人の少女がいた。それから十数年経た今、彼女は変化に抗わず、身体と精神の変化をパフォーマンスに昇華し、ベルリンの地で「川口ゆい」を踊りつづけている。




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