「現在、伊豆の修禅寺で大改修が行なわれている。
何年にもわたるそれを手掛けるのは、宮大工界のサラブレッド、田子空道さんである。
群馬育ちの空道さんに、縁もゆかりもない修禅寺で、 偶然が重なって始まったという
大改修と、宮大工という仕事について伺った。

伊豆・修禅寺の歴史と大改修について

修禅寺は平安初期の大同2(807)年に弘法大師により開基。旧本堂は文久3(1863)年に火災で焼失。その後、明治16(1883)年に再建。地元の大ケヤキを使用し、安政大地震で倒壊した三嶋大社本殿(重文指定)を再建した際の棟梁たちによって建立されたもので、伊豆の匠の技を存分に発揮した文化的価値の高い寺院建造物であった。しかし、関東大震災、伊豆大震災の大きな地震により被害を受け、また40年ほど前には台風で奥之院護摩堂が倒壊。修禅寺開創1200年を迎えるにあたり、今回の大改修となったものである。



伊豆市観光協会
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大病をして伊豆へ

田子空道さんが伊豆へやって来たのは、今から7年ほど前のこと。

「当時は汗をかけない病気でガリガリに痩せていて、とても仕事ができる状態ではなかった。気力なんて続かないからね。群馬大学の先生の勧めもあって、暖かい伊豆で病気療養することになって来たのだけど、ちょうどこの修禅寺で座禅体験の看板を見て、させてもらったの。 あとで聞いたら、その看板を出したばかりで(座禅をしに来た人は)初めてだったと。これも縁なのでしょう。座禅をして、掃除をさせてもらって。それから、絵を描いて、気ままに過ごした。 絵は習ったことはないけれど、夢に出てきたのを描いたら、おもしろくてしょうがない。あんまり大きな絵を描くものだから、場所がないのね。それを御前様(田中徳潤住職)にお話ししたら『お使いなさい』と、100坪もある大きな旧庫裡(住職やその家族が使う部屋)を貸してくださった。まだ知り合って1週間しか経っていないのに、ですよ」


毎日座禅と掃除で数年。そうこうするうちに、修禅寺の大改修の図面を持ってこられて、意見を聞かれた。このとき、まだ空道さんは自身が宮大工であることを明かしていなかった。 「それなのに、改修の図面を見せてくださった。これもまた縁かなあと。そして改修に関しての意見を正直に申しあげたら、任せると言ってくださった」まさに、縁続きとはこのことだ。

偉大、そして厳格なる父


父から譲り受けた古い道具。のみ一式と鋸(のこぎり)。「この鋸は、持ってみると違いがわかる。軽くて手になじむのね。今のとは全然違う」いずれも江戸時代のものだとか。

空道さんの父は、田子式規矩法大和流五代目・田子光一郎氏。近代規矩(きく)術(※注1)の生みの親である。 「次男坊として生まれたの。うちは男なら大工。もう有無を言わせず、ね。だから、兄弟はみんな大工。疑問にも思わなかったし、迷いもしなかった」と豪快に笑う。代々宮大工の家系である。 「夏休みは、おじいちゃんに連れられてお寺によく行った。そうやって徐々に宮大工になる気持ちの修業をさせられてたのかもしれないな」


ここで近代規矩術について触れておこう。大工さんの使う道具の中に、L字型をした「さしがね」がある。これ1本で建築角度を割り出すことができるという。

「割り切れない数字というのがあるでしょう? これを使うと、問題ないの。そういう風にうまくできている」 規矩術は前からあったが、これを徹底的に解明して規矩定規を完成させたのが、空道さんの父である。「それは厳しい人でね、話を聞くときには正座をさせられる。子供だからといって、甘えさせてはくれなかった」。今でも話を聞くときには正座をするのだという。


※注1  近代規矩術は、約1300年にわたり名工によって改良されつつ継承され、近代に至った大工特有の技法である。この技術を伝えるために、規矩定規を完成させ、1961年に規矩定規メートル法による曲尺を考案したのが田子さんの父、田子光一郎氏。建築大工界ではこれを称して「田子式日本尺」と呼ぶ。

同じように復元することの意義


その昔は宮大工が彫りものもしたが、江戸時代から彫刻を専門とする人達の出現により、分業化が進んだという。今ではめずらしいというが、「魂こめて(自分で)彫りましたから」と空道さん。

空道さんがここにやって来た当時、修禅寺は2度の大きな地震などで全体は傾き、雨漏りもするといった具合に、大改修の必要に迫られていた。この改修、じつはとても大がかりなものとなっている。というのも、一度すべてを解体し、使えるものはそのまま使い、新しく作らなければいけないものはまったく同じものを作るという「復元作業」をしているからだ。

「まっさらで新しいものを作るほうがずっと簡単なの。でもそれでは1000年以上という年月を壊すことになってしまう。 宮大工として、許されないことだと思うんですよ。伊豆はすぐれた職人集団がいて、その人達の技の結晶だから、学ぶべきものがたくさんある。ここできちんと改修すれば、また何百年ともつでしょう。それが私の役目なんです」


ふと見上げた先の瓦(かわら)が眩しい。 「あの瓦、みんな同じものではないんです。お寺というのは見て美しく設計されているので、一枚一枚が微妙に違う。解体したときに、瓦はすべて運び込んで同じように焼いてもらってます。鬼瓦も、こうしてみると大きさは感じないけれども、私の身の丈よりもあって、いくつかに分割してあるの。よーく見ると、それがわかると思うけど」

見上げるとなるほど継ぎ目らしきものがある。 「昔はクレーンなんかなかったわけだから、分割して持ち上げられる重さに作って、上でひとつの鬼瓦にしたのね。復元というのは、それも守る。だって1000年というスパンで守ってきたわけでしょう? 変えるわけにはいかない。見えないところでは耐震のことも考えて補強しているし、今回は解体して地震に弱かった箇所がわかったので、少し太く変更した。でも、それだけ。変えないことって、すごく大切だと思う」

日本の伝統は守れるのか?

 「本堂を一度全部解体したでしょ? そうしたら、この建物の偉大さがよくわかった。たとえば、金物。江戸時代の釘(くぎ)は錆びていない。ところが昭和の補修のときに使った釘は錆だらけ。これじゃ、もつわけない。どこが違うかというと、江戸時代のものは刀鍛冶(かたなかじ)の職人がきちんと火入れをして打っている。釘1本1本に命を入れているわけ。本当は、こういう釘を使いたいと思う。  でも、たとえ作ることができたとしても、高価で使えない。今はそれができる職人さんは本当に数少ないでしょう?  宮大工という職人や技術は残っても、それをとりまく道具や金物はもう手に入らなくなる一方。本当の意味でこういう伝統を守らないと、日本の伝統文化は滅びてしまうと思う」  今回の大改修を通じて、痛切に感じたそうだ。その空道さんが手にした江戸時代の鎹(かすがい)も釘も、まるで昨日できたかのように美しい。
改修前の本堂に使われていた江戸時代の鎹(かすがい)と釘。 糸は空道さんが巻いたもの。小さな釘は昭和の改修の祭に使われたもので 錆がひどい。木材の一部に地震に堪えられずに亀裂がはいったものがあったので、今回の改修ではより太いものが使われた。
自然には逆らわない。それが極意。

山ごと買え、山の通り建てろ


奥之院は弘法大師ゆかりの霊場。台風で倒壊した護摩堂再建にあたって、残った礎石から当時の護摩堂を空道さんが再現した。

「300年を考えてモノを作る。だから、“木を読む”というのがとても大切になってくるのね。関わると決まったら、材料を見つけるところからしなくてはいけない。だから4キロも5キロも痩せるほど、それくらい神経を使っても、まだ足りないと思う。そういう仕事をさせてもらっているのだもの」

空道さんはまた、口伝(代々伝わる宮大工の教え)について語ってくれた。

「昔は、『建てるなら山ごと買え、山の通り建てろ』と言われたもの。どういうことかと言うと、山の東側に生えている木は東の柱に、山の南側の木は南の柱にって。木というのはまっすぐなようでいて、じつはそうでない。クセがある。そうするとうまく釣り合いがとれて、倒れない。なにしろ何百年ともたせなくてはいけないから、木を大切にする。その土地の木を使うのが一番いいとも言うの。気候風土にあってるからね。今回も土地の巨木を寄進していただいて、本当にありがたかった」

まだまだ入口、一生が勉強


「宮大工になったら一生勉強だと思う。病気して、また元気になって、前よりもいい仕事ができるようになった。でも、まだまだ入口かな。自然に逆らわない。それが極意だと思ってる。大自然の中で生かされているんだものね。人間100年たらずしか生きないのに、1200年の工事に携わっている。しかも偶然の重なりが生んだ大改修をさせてもらって、こんなにうれしいことはない。幸せ者ですよ」


本堂の大改修はまだまだ続く。つづいて奥之院である。空道さんは「全部終わったら、もう温泉にのんびりつかって過ごそうかな」と笑うが、気の遠くなるような道のまだ途中。「先のことは考えない。毎日を、ただひたすら。ウソのつけない仕事だからね」隠居で温泉三昧の日々は、まだまだ遠い。「それもまた人生」と、空道さんは笑い飛ばす。本堂は、2006年4月に美しく改修を終えて姿を見せてくれる予定である。




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