デジタル文化未来論

「タイプフェースというのは、ヴィジュアルコミュニケーションの手段です。いわば目で見る言葉なんですね。」

小塚さん 日本は文字文化が非常に発達している。表意文字と表音文字、漢字と仮名が複雑に組み合わされて成り立つその在り方は、他の文化に類を見ない。そして<目で見て読みとる>という認識方法が、ごく自然に日本人の感性に根付いている。しかし、DTPをこれだけ広げたMacのフィールドでも、人々が一番頭を悩ませたのがこの日本語フォントの問題ではないだろうか?多種多様な文字が存在する日本語のフォントを作り出すためには、膨大な時間と労力と感性が必要だ。26字で終わるアルファベットとは比較にならない。今回、アドビから出た小塚明朝という新しいフォントは、デジタルテクノロジーと日本人が持つ繊細な美意識との融合によって誕生した。今回はその生みの親であるアドビシステムズ株式会社日本語タイポグラフィディレクター小塚氏にお話をうかがった。

 小塚さんは、以前毎日新聞にいらっしゃったということですが、アドビに来られる前はどのようなお仕事をされていたのでしょうか?

 毎日新聞に入ったのは昭和22年ごろです。当時、それこそ東京は焼け野原でした。当時挿し絵なんかを描くのが好きで、アルバイト的にやっていたところそれが目に止まったようで、やってみないかといわれて入りました。その頃、すべての生産管理はアメリカの占領軍に管轄されていて、とにかく軍事産業に繋がるものは全てストップされましたが、その中で出版事業は緩和されていました。文化事業ですからね。それで、新聞、出版、印刷などその辺の復興は割合に早かったんです。当時、活字というのは手作りでした。元は種字といって鉛あるいは木の黄楊(つげ)の上に彫ったものです。それを機械的に彫る彫刻機を新聞社が導入して、活版工程の機械化事業が始まりました。その元になるのは文字のデザインであって、まず紙の上に書いて、それを彫刻機で彫り、活字の鋳型である母型ができ、活字を作っていた。「そんな文字作り誰かやるやつはいないか」ということでピックアップされて、当時の種字彫刻師について半年ほど学びました。実は私は、今でいう書道、昔はお習字と言った、あれが大嫌いだったんですよ。(笑) 確かに文字は下手だった。コンプレックスを持っていたのに何故今の文字デザインに入ったかというと、文字のデザインというのはどちらかと言うと絵に近いものがあります。平面構成というか。それで夢中になってフォントを作っているうちに、文字デザインの背景とか、歴史とかの興味をもって、さらにいろいろな人に会ったり、いろいろ専門の学校で講義を聴いたりしました。だから本格的に文字の勉強を始めたのは、新聞社に入ってからです。
 日本のタイポグラフィーは、明治の初年に中国から輸入されたものです。ところが、仮名(カナ)は中国にないですよね。それで、当時いろんな人が仮名に取り組み明治の中頃になって、だいたいの漢字と仮名のバランスがとれた。それを発展させていったのはやっぱり日本の新聞です。戦後しばらくたって昭和30年代の終わりに写植機が登場します。昭和40年から45年になると、デジタル写植機の時代になりました。その頃から、デジタルフォントが登場してくるわけです。たぶん日本では、デジタル写植機が登場してから、最初にデジタルフォントを作ったのは私共だと思うんです。 昭和47年に新聞の本文用のものが完成しましたからね。その時、ヒントになったのは、電光ニュースです。あれがまさにデジタルフォントのデザインのきっかけみたいなものです。当時、あるメーカーさんなどは写植の文字板を引き伸ばし、碁盤の目になったメッシュをかけて、サインペンで染めてました。だから、エッジが全部ピクセルごとのジャギーが出ている。それを入力するような方法をとっていたようです。



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