遺伝子の「情報」という一方、広い意味での「情報」というものはさまざまなメディアの上に流通しています。このような「メディア/情報」というものは日常の中で個性にどのような 影響を与えているとお考えですか?
 「個性」というか「その人の考え方」という事ですよね。自分「は」こう思うと云っていて、実は他では誰かが同じような事を云っているという、例えばニュースなどでキャスターのコメントを聴いて、「ああ、ちょうど僕もそう 思っていたんだ」なんて思う。それで、その 内容を翌日自分の考えであるように口に 出しているということは多々あるように思い ますね。誰かの発言が自分の意見のように 思えて、それを他の人に云うという事は、 ラジオとかテレビとかについて昔から散々いわれていますよね。
 インターネットでは、書評サイトなどを見たりするのですが、そういうところでは1つの コミュニティのようなものができていてるんですね。コミュニティの1人が「この作品が 面白い」というような事を云うと他の人が同調してしまって何となくその作品の作者が英雄のようになってしまっているという傾向はあるような気がします。
 実際のところ読書なんてものは非常に個人的なもので、どれが面白くて、どれが面白くない、ということがそれぞれで一致することはそうそうないと思うんですね。でも、こういった書評サイトではみんなが同じものを面白いと云ったり面白くないと云ったり。とても不思議な感じですよね。

インターネットに限らず、「読書好きの仲間」等でもそのような傾向があるのでは?
 そうだと思います。本の雑誌の中である 書評家が面白いというと、読者は本当に面白いと思ってしまう、そして、その作品を読んで自分も面白いと思うことで、あたかも自分が読書の達人であるかのように感じる…僕も そういう経験があります。
 こういう事は読書に限らず、音楽とか色々なところでも昔からあるのではないでしょうか。ただ、昔は本とか雑誌じゃないと評価という ものが見られなかったのに、今はインター ネットでたくさんの人に見られるようになったというのはいえるでしょう。

自分の属する領域と他の領域が 交わってゆく時に
「自分たちのやり方が」
と 云っているだけでは通用しなくなる

インターネット等によるコミュニケーション手段が広がり、自分のいるコミュニティの内外の 境目が曖昧になったり、他のコミュニティとの接点が増えていったりという中で、コミュニ ティはどのように変化してゆくとお考えですか?
 小説を書くのに、最近はロボットの専門家の方や、各国の博物館の学芸員の方とお話をしているのですが、そういう方とお話をして思うのは、もともと僕が属していたコミュニ ティ、僕の場合は学生のころには薬学の世界に属していたのですが、コミュニティの中での考え方や手法というのは、そのコミュニ ティの中だけのものだということですね。生物系と工学系、それに文学系等で全然考え方は違いますよね。ある世界ではこの人の云う事には逆らえないという存在がいるので すが、その存在自体が他の世界では全く 知られていないなんて事はよくあること ですよね。特に学問の世界はユニバーサルなものなんだろうなという幻想を持っていたのですけど、実際はそれぞれの領域の中で偏っていたり、他の領域での方法論を知らないとか、知ろうとしないという事がある。 そして「私のところではこういうやり方だから、 あなたのところのやり方は通用しませんよ」という事が当たり前にあるんですね。
 今後こういう事はどんどん崩れて行くと 思います。自分の属する領域と他の領域が 交わってゆく時に「自分たちのやり方が」と 云っているだけでは通用しなくなる。お互いの方法論を結びつけてやってゆくということが大切になる、そういうことをやってゆかないと新しいアイデアなんかが出てこなくなるのではないでしょうか。自分の領域に如何に 他の領域を引きつけて、混合させてゆくかと いう事は非常に大事だと思います。

他の領域をどう引きつけてゆくかという事は誰もが自覚的になってゆくと思いますか?
 色々選択があって、「僕は僕でやるよ」と いう人は必ずでてくると思うし、多分それ でも生きて行けると思います。現在混合させてゆくという事を「何とかしなくては」と考えている人は、それぞれの領域の中からはじきだされてしまうタイプの人が多いでしょうね。プロパーな領域では、逆に煙たがられているという状況があると思います。でもそういう ことを考えている人は、現在までの方法論に閉塞感を感じている場合が多いでしょうね。そういう人は何かもう少し「面白いこと」を やりたいな、という感じ方なんだと思うん です。実際相互研究的な分野というのは求められているのですけど、色々な領域の人が 集まって何かをやる、という事を積み重ねてゆかないと急には何もできない、実際にそういった事をやらなくてはと感じている人々が何回も積み重ねていってノウハウを作り出してゆくということが非常に重要になります よね。その結果、「相互に」せざるを得ない 人はそのノウハウを参照してゆけばいいし、我が道をゆく人は我が道を究めればいい わけです。選択をするということは個人に 委ねられるわけです。ただ、現時点で「相互に」という事を叫んでも、じゃあ、何を相互にやるのかというというところで戸惑っているという感はありますね。
 「相互に交わってゆく」という事に対して 非常に「この先どうなってゆくのだろう」と いう感覚を抱きます。インターネットという 「多情報」のメディアによって今までは自分の両域の中で「個性的」だったのが実は同じ ような「個性」というのがあちこちにいる等ということに自覚的になってしまうということがあるかと思います。
 メディアということで思うのですけど、 メールマガジンやホームページ上での日記というものを、じゃあ書籍にしてみましょうという事をやるとなぜか書籍上ではつまらないなんて事があるように思えるのですね。これがかつての文学者等の書簡や日記などを、書物として読むときには結構面白がれる のに、不思議だな、と思うわけですよ。
 これはインターネットと書物というメディアの違いによるものなのか、それとも現代の ウェブ日記やメールマガジンは実はそもそもつまらないものなのに、インターネット上で 見ているから面白いと感じているのかということなのか、わからないですけど最近は非常に気になるところですね。


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