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インターネット上の、情報の捉え方
だから、英語圏に関していえば、個々の情報ソースの信憑性を問うよりは、むしろ数を当ることで、真実、事実というものがある程度見えて来るわけです。それに、インターネットはなんだかんだいっても、8割は英語の世界ですから。元々の情報量が多い上に、書く側の人間が自分なりの考え方をはっきり出すという文化的な土壌があるわけですから、そうした世界の捉え方がやりやすい。実際、私のメールマガジンでも、記事執筆の元となる情報ソースは英語圏を中心に、中国語圏なども入れています。日本語の情報は、ほとんど集めてないですね。
ただ一方で、「ひとつの情報ソースに頼ら
ない」という姿勢を持つことができれば、極端にいえば情報統制されたマスメディアの記事だって、参考にならないわけではない。私も
インターネット上の中国語のメディアは、世界情勢の記事を書くに当ってよく参照しますが、米国のメディアに載った記事などと比較する
ことで、より深く世界が見えてくる。むろん別に欧米の記者が他に比べて優れているということではなくて、欧米の記者の中にも、たとえば日本のことを書かせると頓珍漢な人もいますけど、それはそれでほかに比較対象をなるべく多く揃えることで、日本に対する分析の違いから、日本という社会を浮き彫りにすることもできる。
要は、「正しい中立な意見が存在している」っていう幻想を捨てることではないかと思います。
情報収集とは、どこかにある「正しい中立な
意見」を拾うことではなく、また様々な情報の
いくつかを「無駄と思える情報」と急いで判断して捨てるのではなく、いろんな情報の中から自分なりの見解を得ることではないでしょうか。
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誰でも情報発信できる、送り手側と受け手側が双方向にコミュニケーションできる云々、インターネットに於ける情報発信の可能性は、様々に喧伝されてきた。では実際はどうなのか。この点についても、プロのジャーナリストである田中氏の意見を伺ってみたい。
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個人によるジャーナリズムは発展しているのか?
私の知る限りでは、現在のところ、私のように
個人で、ジャーナリストを名乗ってインターネット上を主な発表場所として、しかも生活が成り立っている例というのは、日本でも他の国でも、私は聞いたことがありません。米国などでは、さっきも述べたように、どんなメディアでも記者が個人として取材した事実と見解を述べるということが、まあ当たり前なので、多少事情は違ってきますが、日本の場合だと、インターネットの「気軽に発行できるメディア」という特性を活かした読み応えのある情報は、
ほとんど見当たらない。
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