Okano Industrial Corporation 
Masayuki Okano 


1933年、東京生まれ。
 実父である岡野銀次氏が1935年に創業した岡野金型製作所の仕事を引き継ぎ、従来から行ってきた金型製作技術の研鑽に加え、新たに“深絞り”と呼ばれる分野の金属プレス加工の仕事を開始。1972年に二代目社長に就任し、社名も岡野工業株式会社と改める。以後、リチウムイオン電池のケースなど、従来深絞りなどのプレス技術では不可能とされてきた金属加工を次々と実現させ、“世界的職人”“金型の魔術師”として、国内外を問わず大きな注目を集めている



日本という国を象徴する産物のひとつとして、工業生産における“技術力”がある。極端にいえば、資源に乏しいこの国を支えてきたものこそ、この“技術力”だといってしまっても、決して言い過ぎではないだろう。そして、その高度な技術的発展を支えてきたのは、なにも大企業ばかりではない。さまざまな発想に具体的なモノとしての形を与える、職人の技の研鑽があってこそ、日本の技術が世界に誇れるものに育ったのだといってもよいはずだ。日本国内の大手メーカーのみならず、EU諸国や果てはNASAまでが注目する東京下町の“町工場”―岡野工業は、そうした日本の職人を代表する存在である。これまで不可能とされてきた金属加工を次々と可能にしてきたその“技”の源泉とはなんなのか、自ら“代表社員”と名乗り岡野工業を率いる、代表取締役の岡野雅行氏に、不可能を可能にしてきた軌跡について、お話を伺ってみた。


下町の町工場から生まれ出る数々の最先端技術

東京・東向島。隅田川と荒川に挟まれたこの東京下町は、昔で言えば寺島町・玉の井界隈だ。永井荷風の小説や滝田ゆうの漫画でもよく知られる、かつての東京を代表する歓楽街、遊郭街だった土地である。その東向島にある岡野工業を訪れ、“代表社員”である岡野雅行氏のお話を伺っていると、そのいかにも下町っ子らしい、景気のよい伝法な口調に、古きよき東京下町の風情を感じずにはいられない。わかりやすい例でいえば、「男はつらいよ」の世界に紛れ込んでしまったような、ある種懐かしくも心地よい時間に浸り込むことができる。

岡野工業は、一言で言ってしまえば“下町の町工場”だ。立地や規模から言ってもそうだし、岡野氏自身も「あたしは“町工場”で自負してんだよ」という。だから、岡野氏のお話を伺っている時間は、あたかも“町工場の親父さんと世間話に興じている”という風情なのだが、しかしその話の内容−岡野氏の手掛けてきた、また現在手掛けている仕事の話は、驚くほどに“最先端技術の最前線”を垣間見ることができるものだ。

身近な例を挙げてみよう。現在、ポケットの中に難なく収まるまでに小型化された携帯電話は、リチウムイオン電池という小型かつ大容量の電池があってこそ現在の大きさにまで進化したわけだが、そのリチウムイオン電池は、ケース部分が均一な厚みを持つステンレスの一枚板から作られる必要があった(でないと、腐食による液漏れなどの事故が発生する)。硬く亀裂の入りやすいステンレスの一枚板の、あのサイズでのプレス加工(厳密にいえば、“深絞り”と呼ばれる)はかなり高度な技術だが、その技術を世界で最初に実現したのが、ほかでもない岡野工業なのである。

また、医療機器メーカーであるテルモの依頼で“刺しても痛みを感じない注射針”を開発したのも岡野工業だ。ちなみにこの針は、なんと蚊の針と同じ太さ、針の直径が0.2mm、穴の直径が60ミクロンという微小なもので、理論物理の世界でも不可能とされていたが、これもステンレス素材のプレス加工で実現させた(しかも従来の注射針程度のコストで製造可能だという)。あるいはリチウムイオン電池と同じ堅牢性が求められる燃料電池のケース、マイクなどの金網、0.125mmの細さの光ファイバーのコネクタ、SDI計画の際にNASAが開発したパラボラアンテナ用の部品などなど、岡野工業が“プレス加工では従来不可能とされていたもの”を可能にしてしまった例、そしてそれが工業製品のフロンティアの開拓に大きな役割を果たしてきた例は、枚挙に暇がない。

資本金1000万円、従業員6人という“下町の町工場”が、こうした世界的にも稀な最先端技術をリードしてきた背景には、どのような秘密があるのだろうか。まずは、岡野工業を率いてきた岡野氏の、プレス加工という技術への取り組みを伺ってみよう。


“安すぎて誰もやらない仕事”と“難しすぎて誰もできない仕事”

「今はうちも、プレス加工の分野の技術で知られるようになったんだけど、あたしの親父の代は金型製作専業だったんだよ。で、二代目のあたしになってから、プレスもやるようになったんだけど、なんでプレスもやるようになったかっていうと、簡単にいえばそっちのほうが“儲かるシステム”になってたからなんだ。金型屋は言われた通りに金型作ってプレス屋に納めてそれでおしまい、だけど、プレス屋はそのあと実際に製品を大量生産するわけだから。それにプレス屋だったらメーカーと直に話ができるから、メーカーが何を考えてその仕事を発注したのかもわかるから、仕事としても面白いしね。

で、あたしは金型だけじゃなくてプレスもやりたい、って親父に話したら、そんなお得意さんの仕事を奪うような真似はとんでもねえ、って怒られた。だったら、仕事を横取りしないようなやり方でやればいいじゃねえか、ってことで、他のプレス屋がやらない仕事だけをやるようにしたわけだ。具体的にいえば、あまりに安くて誰もやりたがらない仕事と、あまりに難しくて誰も手を出さない仕事だね。もともとあたしは人と同じことをやるのは嫌いだし、職人として工夫するのは好きだから、安くて見合わない仕事だったら見合うようにしてやろう、誰もできない仕事だったらあたしが実現させてやろう、と思ったんだよ。今にして思えば、それが現在に至る原点だね。みんなと違う道を行こうという。」


儲かっても儲からなくても自分のやるべきことをやり続ける

しかし、そうはいっても、誰も手を出さなかった仕事というのはそれなりの理由があるはずだ。そうした仕事に携わり、不可能を可能にし、商売として軌道に乗せるには、それ相応の苦労があっただろう。

「そりゃもちろん、年商がたったの3万5千円なんて年もあったしね。そのときは受けた仕事が完成するのに5年もかかっちゃったからなんだけど、あたしは、完成していない仕事ではお金もらわないから。研究開発費なんかを最初から折半してもらっちゃうと、こっちの思うようなやり方で仕事できないでしょう。
 でも、基本的には従来からの金型の仕事ももちろん続けているし、プレスにしたってそんなに儲からない仕事も地道にやって、新しいことを研究する資金が途切れないようにはしている。だって、うちは技術で食ってるんだし、他所がやらねえことをやるのが商売だから、それを怠るわけにはいかねえんだ。うちもプレスを始めてからは、金型だけやってたときよりは儲かるようになったし、その間に岩戸景気もバブル景気もあったけど、やってることはずっと同じ。多少儲かったり、世間の景気がよくったって、みんながやるようにほかのことに投資したり、無駄に会社を大きくしようなんてことは考えなかった。これはまあ、親父から教わったことでもあるんだけどね。
 だから、安い仕事だったらプレスの工程を減らしたり自動化したりとシステムを見直すことでコストを下げる方法を考えたりとか、難しい仕事だったら金型の製作やプレスするときの潤滑油の選択も含めてなんとか実現する方法を編み出したりとか、自分のやるべきこと、つまりこの仕事の研究はずっと続けてきた。あと、量産だけに力を入れると単価はだんだん下がってくるから、ある程度のところでシステムごとプラントとして売るようにしてきたとか。自分でいうのもなんだけど、システム作るのうまいんですよ、あたしは。
 あとは昔やった仕事や失敗した仕事のときの技術に関することは捨てずに取っておいて、あとから応用できるようにしておくとか、もちろん一言では言い尽くせないけどな、やっぱりこの仕事が好きでこの仕事のことだけを考えてきたから、誰もやらねえことだけをやってく苦労も乗り越えられたんだと思う。」


Next page >>


Back to home