関係性の未来。それぞれの気持ち、思いをベルにたとえた「RING BELLS」ーHIDEHIKO KADO 門 秀彦さん「RING BELLS」(リングベル)著者


私たちは手話を通したコミュニケーションから何を感じるだろうか。手話をわかりやすいグラフィックで描いた本「RING BELLS」の筆者、門秀彦さんはどのようなメッセージをこめて、それを世に送り出したのか。私たちは思いを伝えたい時、どうして言葉を探すのか。そして違いを個性として認めることの重要性とは何か。新たな試みでメッセージを届けるアーティストに発刊の意図を尋ねた。


相手と自分の間にある“ひとつの言葉”として本を作った。

__まず、「RING BELLS」というタイトルの意味を教えてください。

[RING BELLS]は、もともとは本のサブタイトルにある「HAND TALK=HEART TALK」というTシャツのブランドとしてスタートしたものです。「HAND TALK=HEART TALK」という言葉はズバリ言い得ているタイトルだと思ったのですが、続けているうちに手話というイメージを外したくなったんです。それは手話はメッセージを伝えるためのカタチのひとつで、僕らが音声を使って伝えること、会話することと本質的には一緒なのだということがわかってきたからなんです。タイトルに使っている「RING」は響くとか共鳴、共感するという意味で、「RINGBELLS」とはベルがいっぱい鳴ることですね。人それぞれの気持ち、思いみたいなものをベルにたとえて、それが響き渡るという意味です。気持ちや思いを伝えるには、言葉や、文章があり、さらに手話であったり、顔の表情であったり、握手であったりもする。そういう全体的なイメージのタイトルにしたかったんです。2000年にはTシャツのブランド名を「RING BELLS」に変更し、そのまま今回の本のタイトルにしました。


__手話の本がグラフィックのアプローチで登場したのは初めてだと聞きましたが、これまでに企画されなかったのはどうしてでしょうか?


A「ボク ワ キミガ」B「?」

A「スキ ナンダ」B「!」

B「ワタシモヨ」A「ワォ」

A&B「ヨロシク!」

「RING BELLS」のような手話の本がこれまで登場しなかったのは、ある意味では仕方のないことだと思います。なぜかといえば、手話は耳の不自由な人のためだけのものであるという意識がみんなにあるからなのでしょう。僕の両親は聾唖者で、僕は健聴者ですから当然、僕は通訳をしなければならなかったわけです。聾唖者と健聴者の間に僕を置くことによって、両者がつながっていく様を僕はずっと見てきた 。僕の手話は「健聴者と聾唖者とがつながるための手話」なんです。たとえ手話に興味があっても健聴者同士で手話を使う事はあまりないでしょう。聾唖者に対して気をつかっているのかもしれないし、 軽い気持ちで手話を取り上げてはいけないと考えているからかもしれません。そこには両者の間にお互いが作っている壁があるような気がします。健聴者が手話を勉強する場合、手話通訳、あるいは福祉活動の一環として真剣に聾唖者の世界に入っていこうとする人だけが手話を使えると思われているんじゃないかと思います。健聴者の方で何のためらいもなく聾唖者に近づける方はあまりいないでしょうね。しかし、相手が片言の日本語しかしゃべることのできない外国人であれば、簡単な単語を並べて、あとは顔の表情であったり、アクションであったり、何かで表現して会話するでしょう。それで事足りるわけです。なぜかと言うと、複雑なことはどうせ伝わらないとわかっているから、一番伝えたい気持ちだけをとりあえず伝える。あとは接していくうちにだんだん分かってくる。僕は幼い頃はまだ手話が上手でなかったので、身振り手振りや表情などで両親と話をしていましたが本当に伝えたいことはそれで感じ合えるし、それで伝わるということを体験してきました。大切なのは心と心のコミュニケーションです。伝えようとする心と、理解しようとする心がなければ会話は成り立ちません。
当たり前のことなんですが、手話は目で見る言葉です。しかし案外、僕ら健聴者の日常において、相手と面と向かって目を合わせて話すことはなかなかない。友達であっても慣れてくればくるほど隣同士で、目も合わさずに会話する。「わかっているだろ」みたいな感覚です。でも、手話を使う場合、直に向き合わなければならないわけです。たとえばクラスで6年間一緒にいた友だちでも握手はしたことがないケースってありますよね。手話で話すということはまず最初に握手をするようなことなのかなと思うのです。
この本を熟読したとしても、手話を完全に覚えたことにならないでしょう。これは片言の手話をグラフィックで見せて教えるための本。だから前例がないんです。通常の手話の本は、手話をマスターするための本なんです。そこが 「RING BELLS」とはぜんぜん違うのだと思います。聾唖者の方たちは決して健聴者全員に完璧な手話をマスターして欲しいとは思っていないでしょう。手話 は少し覚えてくれたらいいよ、あとは筆談でもいいし、口を大きくあけて話してくれたら少 しはわかるからいいんだよ、という具合です。僕ら健聴者が聾唖者になり切って、たとえば耳に詮をして口にマスクをして、手話を覚えていくというのは、まったく無意味なことだと思うし、耳の不自由な人たちが自分たちの本来持っている伝達手段ではない音声言語を使うとか、聴こえないのに聴こえているようなそぶりをして健聴者の世界に入っていくということはまったく無意味だと思うのです。


何かが欠けているのでなく、
個性なのです

__門さんは表現の仕方も個性であるとお考えなのですね?


A「ネエ」

B「!」A「ドウシタノ?」

B「フラレマシタ」A「......」

B「......」A「......」

「聴こえない」というのはひとつの個性。「しゃべることができない」というのもひとつの個性。そのかわり手を使って言葉を伝える。僕らは聴こえるから耳で聴く、しゃべれるからしゃべる、ということだけなんですね。「手話」と言った時に一番多く返って来るのが「僕は手話ができないし、聾唖者の友だちもいないから軽軽しく手話について話してはいけないんじゃないか」というような言葉です。しかし、それはその人の中に偏見があるんじゃないかと思うんです。健聴者からすれば、聴こえないということは個性ではなく、マイナスの要素だと思えるのでしょう。でも逆に聾唖者から見れば、僕ら健聴者は手を使ってしゃべれないわけです。もちろん手話を覚えればできるわけですが、本来の意味ではできないと思います。耳が不自由な人たちの、目や肌で感じとる感覚は驚くほど優れています。それは僕らにはないものなのです。仮にしゃべれないことをマイナスだと 仮定しても、それを補うために僕らより優れたプラスの部分を持っているから、結局、プラスマイナス・ゼロだと思うんですね。僕らは耳で聞くことができるから、音の感覚を肌で感じることはなかなかできないし、そうした感覚は鈍くなっていると思います。つまり僕らも何かが欠けているわけです。お互いがフィフティー・フィフティーで同じ地平線上に立っているということにみんなが気づけば、そんなに差は感じないし、個性として言葉が違うだけだということが理解できると思うんです。「明らかに異なる」からといって、「何かが欠けている」わけではないのです。それが個性であるということがわかってくると、手話も音声言語と同様に単なるひとつの言葉で、人と人との間にあるものだと理解してくれるでしょう。
「RING BELLS」で伝えたかったのは、聾唖者が健聴者の世界に入ってくるとか、僕ら健聴者が聾唖者の世界に入っていく、ということではなく、両者の間に、ある共通の言葉があればいいというメッセージなのです。それが片言の手話でもいいと思う。実は「RING BELLS」のテーマは「手話」ではなく「コミュニケーション」。僕と相手の間にあるものが絵、そして言葉。手話も同じである、という考えなのです。



相手との違いを認めるから、
わかる言葉を探す

__絵や本、個展などを通じて表現する理由は何ですか?

「なぜ表現するのか」というと、自分がどこに向かっていくのかに興味があるからなんです。生まれて死ぬまでを考える時に、人はそれぞれ基本的に楽しく一生を終えたいと考えていると思うんですね。みんな幸せになりたい、と願っている。その時に心の中に湧きあがる「思い」を何かの形で共感したり、与えたり、もらったりしながら、幸せな方向を探してる気がするんです。僕は自分が何かを「言いたい」という次元から始まり、「自分はこう思っています」「こう感じています」ということを相手に伝えたくて絵を描きはじめたんです。
絵にしてもグラフィックにしても同じですが、誰かに観てもらって、何かそこからレスポンスが返ってくる。返ってくるのは「言葉」だったり「思い」だったり。そこの確認が大切なんですね。表現手段として、なぜリアルな個展や本やTシャツといった形にするのかと言えば、レスポンスの確認のためなんです。見てくれている人がいるのかいないのかわからないという状態で自分のベルを鳴らし続けるというのは、僕にとってはまったく幸せではないんです。個展を開いてみんなに観に来てもらう、インターネットで観てもらう。本を手に取って読んでもらう。言葉を使う人はメモやメールで返事をくれるし、文章が苦手な人は観るだけかもしれないけど、きっと何かしら感じてくれているんだろうと思います。それはものづくりにかかわる僕にとって、やったことがちゃんと伝わったのかを知る確認作業なんですね。
幸せだと思う感覚とは、言葉にするとずれていくような気がして、あまり言葉にしないように思っているんですが、あえて言えば、家族と一緒に過ごす時間とか、平穏な日曜を過ごすとか、僕はそんなものなのだと思うんです。通常、生きていくこととはストレスがあり、プレッシャーがあるものだと思っている。でも、ひとときでもそこから解放される瞬間はある。言葉にすると単純ですが、幸せって「何が幸せかを考えない事」なのかもしれませんね。


__レスポンスの確認は、言葉でなくてもいい?

そうです。たとえば絵を観て、何かを感じたとします。その気持ちを誰かに伝えたい時、相手にわかって欲しいから表現を捜すんですね。人によっては最初の感情が言葉ではなく、形がないものかもしれません。それを相手に伝えるという目的があるから、自分と相手との間に表現を探すんだと思うんです。なぜ表現ぜざるをえないのかといえば、僕自身と相手の感覚が違うことを認めているからなのです。相手と自分とは感じ方が違うから、いろんな表現を探すのです。相手がわかるような表現を。たとえば「感動した!」と言って伝わる相手であればそれだけでOK。でも、ある人は「感動した!」に対して僕と異なる感覚を持っているから、もう少し違う言い方をしなければこの思いは伝わらないだろうと判断して、「これこれこういうふうに感動した」という表現を、一生懸命考えていくんですね。
伝わって欲しい相手だから、伝え切るにはどうしたらいいのかを頑張って工夫するんです。相手が頑張って表現してくれたら、こっちもできるだけ理解しようとするでしょ。
表現とは、もともと違う考えや感じ方を持った人たちが、共通の何かを持とうとして発達するもの。僕の絵も同じで、絵は表現手段。僕と誰かの間にあるものなんです。絵が僕自身ではない、僕と相手との間に介在するものなのです。

コミュニケーションの難しさと大切さ。その両方を痛感しているアーティストは、言葉のかわりに「RING BELLS」を届けてくれた。その中にはいくつかのメッセージがこめられている。伝えようとする意思と理解しようとする意思によって成り立つ、気持ちが響き渡る会話。心のベルが共鳴する幸せな時間を迎えるために、私たちに必要なこととは何か。メッセージを受け取った私たちは、幸いなことに、絵や手話を通して、もう一度、コミュニケーションの本質を考えてみるチャンスに恵まれたのである。


text by : 東野 慶太


著書紹介

RING BELLS

HAND TALK=HEART TALK

ぶんか社刊
定価1,300円
好評発売中

サイト紹介


Back to home.