特別連載/未来への質問状


−量子コンピュータは人間に何をもたらすのか−

 たちどころに未来を変えてしまう可能性を秘めた超高速計算機−新しい原理で動く「量子コンピュータ」に熱い視線が注がれている。「リンククラブ」ではこの量子コンピュータに注目し、未来を開くマシンの理論を構築する、第一線で活躍する研究者にインタビューを試みたい。量子コンピュータは人間に何をもたらすのか? その答えは、量子コンピュータしか知り得ない領域なのか? この21世紀に残された大命題にインタビューを通じて取り組んでいきたいと思う。同号よりスタートする短期連載「未来への質問状」が、遥かな明日を見せてくれるかもしれない。


量子コンピュータとは?

「量子力学」の特徴のひとつである「量子の重ね合わせ」と呼ばれる現象をもちいた、量子の原理で作動するコンピュータの総称で、20世紀に生まれた新しい物理学である量子力学を計算原理とする「量子チューリング機械」をモデルとするコンピュータのことを示す。大きな特長は、現在のコンピュータとは比較にならない処理能力を持つこと。既存方式のコンピュータでは解読に200億年かかるRSA暗号が、数秒にして解読されるとまでいわれている。また、暗号解読やデータ検索のほか、目に見えない原子や分子のふるまいの予測などに威力を発揮し、遺伝子やたんぱく質などの複雑な働きを計算できるとされている。実現には乗り越えなくてはならないハードルがとてつもなく高いといわれてきたが、ここ数年の間に通信暗号を瞬時に解けることが論理的に示されるなど、開発の気運は高まっている。
01:

既存のコンピュータは、半導体に電気を入れた状態を「1」、入れない状態を「0」として計算を進めるため、1ビットは「1」か「0」のどちらかである。しかし、量子力学の世界では「1」であると同時に「0」である量子の「重ね合わせ」と呼ぶ状態が存在する。
02:

「重ね合わせ状態」によって量子コンピュータでは、1つのビットで「1」と「0」が同時に表現できるようになる。たとえば入力で4ビットが扱えるシステムの場合、既存方式のコンピュータでは4ビットを使って1つの値を表す。4ビットでは16通りデータの表現が可能だが、入力できるのは1回につき1つだけである。量子ビット4ビットでは1つのビットが「1」も「0」も表現できるので、1回の入力で2の4乗=16通りのデータを入力できることになる。量子の「重ね合わせ」によって実現される量子コンピュータでは、1つの入力用ビットの組み合わせで1つの値しか扱えなかった既存のコンピュータと異なり、1つの入力用ビットの組み合わせで「2のN乗」(Nは入力用の量子ビット数)通りの値を扱える。 03:

また、1つののビットで複数の状態を表現できる量子コンピュータでは、1つの入力命令で複数の計算を一気に行える。 04:

量子コンピュータは入力や計算に要するステップが少ない回数ですむため、既存のコンピュータと比べ、処理速度が格段に向上する。たとえば500桁の素因数分解にかかる時間は、既存方式のコンピュータが1000万年費やすところ、量子コンピュータでは数十秒で終了する。

 私達人間は、新しもの好きだ。今や、生活に欠かせない存在となったコンピュータやネットワークの進歩も、新しいロジックの発見に無上の喜びを覚える開発者、その成果に快哉を叫び、様々な使い方を楽しむユーザ達がいるからこそ起こったこと。進化のスピードが年々速くなっているのは、私たちが実感している通りだが、さて、そうなると次なる飛躍が気になってくる。つまり、もうすぐやってくる未来のコンピュータについて。  これが完成すれば、「あらゆる価値が転換するのでは」とささやかれている次世代コンピュータがある。量子の原理で動く「量子コンピュータ」だ。実現すれば人類にかつてないステージへの進化をもたらすため、世界中が量子コンピュータの研究開発を見守っている。

 しかし、私たちはここでひとつの覚悟をしなくてはならない。量子コンピュータの実現には、コペルニクス的転回が必至だからだ。天が動くと信じてきた人々が、地球が動いているという事実をなかなか飲み込めなかったように、量子コンピュータの概念は、私たちの思考プロセスそのものを危うくさせる。コンピュータとは何かと考えた時、それは、人間の思考の原理につながっている。客観的な事象の認識と、合理的なロジックの組み立て。およそ2000年をかけて、科学的合理主義は進歩した。現在のコンピュータは、そういう流れの集大成として存在する。たとえば、あなたが、「1+1=」と入力すれば、コンピュータは必ず「2」と返してくれる。この確実性があるから、私たちは安心してコンピュータの「解」を信じられるのだ。

 ところが、量子の世界には、複数の答が同時に存在している。それは「確率」でしか表現できないし、誰かがそれを観測するまでは、もやのようなものでしかない。しかも、「観測する」という行為が、一瞬にして事象を変化させてしまうのだ。あなたが月を見た瞬間、月はそれまでとは違うものになっている、なんていうことを証明してしまったのが量子力学である。「これはこうでこうだから、こうですね」という了解が得られないという不確実性! 常に答が変わり続けているという世界を、果たして人間の理性は受容することができるのだろうか?

 ともかく、その事を考えただけで、量子コンピュータの開発者が、かつてない知の冒険に乗り出そうとしている事がわかる。そして20世紀にひとつの頂点を迎えた人間の知性が、大きなパラダイム・シフトを迎えようとしていることも。そもそも量子コンピュータとはどのようなものなのか? 私たちはそれの誕生によってどのような恩恵をこうむることができるのか? 「量子コンピュータ」のある社会とは、どのような可能性に満ちた未来なのか? 量子コンピュータの誕生によって人間の生活はどのように変わるのか? そして私たちはどのような未来を選択できるのか? それらの問いは21世紀の必須科目であり、未来への質問状なのである。

「理学博士 西野哲朗氏インタビュー」

電気通信大学助教授 理学博士
西野哲朗さん

人類にとって宿題として残されている部分の、コアな部分に量子論が存在していると思います。

 最初に「量子コンピュータ」を理解するために依頼した案内人は、量子コンピュータの理論の第一人者で、多くの専門書を世に送り出している電気通信大学助教授で理学博士の西野哲朗氏。私たちの要望を心地よく受け入れ、わかりやすい言葉で量子コンピュータの歴史や理論を説明してくれた。量子コンピュータを何に使うのか? 何ができるのか? みなさんと一緒に考えてみたい。西野さんの言葉にそのヒントがあふれている。

 にしのてつろう/TETSURO NISHINO 1982年、早稲田大学理工学部数学科卒業。1984年、早稲田大学大学院理工学研究科博士前期課程修了。現在、電気通信大学情報通信工学科助教授、理学博士。著書に「形式言語の理論」「量子コンピューティング」「量子コンピュータと量子暗号」など多数。近著に「量子コンピュータの理論」がある。


量子コンピュータの歴史

____まず量子コンピュータの歴史と現状を簡単に説明してください。

 事の起りは1985年、オックスフォード大学の理論物理学者ディヴィッド・ドイッチュ先生が、「量子チューリング機械(※1)」を考案したことから始まります。これは計算機の雛型になるような、数理的なモデルのことです。ここでおもしろいのは、ドイッチュ先生が自分の宇宙論を表現するためのモデルとして「量子チューリング機械」を考案したということです。ですから、事の起りは宇宙論だった、ということです。が、その後、1980年代の後半にドイッチュ先生が「コンピュータサイエンス(※2)」の研究者との交流を通して「量子チューリング機械」に基づくコンピュータがつくられるかもしれない、という話が出たのです
※1 量子チューリング機械…理論物理学者ディヴィッド・ドイッチュが提案した新しい計算モデル。量子チューリング機械のテープの1マスには、0と1の任意の重ね合わせが書き込める。
※2 コンピュータサイエンス…計算機科学と訳される。離散数学を基盤とし、コンピュータのハードやソフトを実現するために不可欠な基礎理論である。
それでコンピュータサイエンスの研究として量子コンピュータ研究がスタートしたのです。

____そのあとでブレイクスルーがあったわけですね?

 次に1994年、ピーター・ショア博士が、量子コンピュータが仮に完成したとすれば、因数分解が高速に行えることの数学的証明をしました。因数分解は、たとえば24という数が与えられたら「3×8」とか「2×12」など、二つの数に分解する問題ですね。因数分解すべき整数がそれほど大きくなければ現在のスーパーコンピュータでも十分速く処理できますが、これがたとえば200桁くらいの数になってくると、現在のコンピュータでは天文学的な時間がかかってしまい、お手上げです。これを逆手に取ってRSAと呼ばれる暗号がつくられています。
※3 RSA暗号…1977年、当時マサチューセッツ工科大学に勤務していた3人の研究者によって発明された数値上の公開鍵暗号方式。3人の名前の頭文字をとって命名。現在、インターネット上でもひろく用いられている。
「RSA暗号(※3)」は絶対に破れない暗号ではなく、破ろうとすると大きな数の因数分解をする必要のある仕組みの暗号です。ショア博士の論理をもちいるなら、量子コンピュータが完成すると「RSA暗号」が破られることになります。そこでセキュリティー関係の人たちが注目しました。これを契機にして量子コンピュータをつくろうという気運が盛り上がったわけです。

____理論の構築から実施へと傾き始めたわけですか?

 1994年にショア博士が示した因数分解の結果があり、その流れを受けて、物理寄りの人たちも量子コンピュータをつくろうとして参画してきます。理論のほうでは、ある程度量子コンピュータが完成すれば「アルゴリズム(※4)」と呼ばれる計算手順である種の問題が効率良く解けるという事例があがっています。
※4 アルゴリズム…9世紀頃のアラビアの数学者アルクワリズムに由来。計算機を動かすためのプログラムに相当し、問題を解くために実行する特定の手続きのことをいう。
しかし、それは量子コンピュータのつくりやすさを考えた理論ではなく、「量子コンピュータなるものの基本的な性質を明らかにしましょう」という流れで研究が進んできたので、つくりやすさを誰も考えていなかった。だから「いざ、つくりましょう」という段階にさしかかり、物理の分野、つまりつくっているサイドから「これは扱いにくい理論である」「もう少しリアリスティックな、実現向けの理論ができないか」といった欲求が浮上してきたのです。つまり、量子コンピュータの実現に向けての、もう少し現実的な理論が欲しいという要望に応える研究が始められているのです。

____アカデミック以外では、たとえば企業の研究は進んでいますか?

 日本を代表する企業で、主だったコンピュータメーカーや通信関連の企業はみなさん参画されています。その理由のひとつは、量子コンピュータをつくっていこうとすると、現在のテクノロジーでは追いつかず、かなりチャレンジングなことになるので、それを遂行する過程でいろいろな技術的な副産物が生まれることを予測しているからなのです。量子系を制御して利用していくという考え方は、「量子工学(※5)」という名でくくられることが多いですが、量子工学分野で獲得できるものは重要な技術なので、各社に技術面で遅れをとってはいけないという危機感があると思います。二つ目の理由は「量子工学や量子コンピュータの開発に取り組んでいますよ」という姿勢が、企業の技術的なステータスのアピールにつながるということがあります。中でも「量子計算」のもとになる「量子ビット(※6)」をつくろうという研究が盛んです。
※5 量子工学…原子や分子など量子力学的対象の応用に関する科学技術の総称。
※6 量子ビット…量子計算の基本単位の呼称。量子演算を行う情報の最小単位で、デジタル信号の1ビット(0または1)と異なり、0と1の「重ね合わせ状態」を取り得る物理系により構成される。
三つ目の理由は、この分野に取り組むのは若い研究者が多く、そういった方々が熱意を持って取り組むのは夢があっておもしろいからという理由が根底にあります。ですから、すぐに成果に結びつくような、すぐに利益が見えているような分野ではないのですが、夢があるし、世の中へのアピールにもなる。日本のみならず欧米でもいろいろな機関で行われていますが、現状をみていると、量子コンピュータがもしつくられるとすれば、そのために必要な技術を持っている国は欧米と日本以外にはないだろうとされています。逆にいえばこの三者のどこかがやらないとできないだろうとされています。

____企業も異分野の研究者も完成のビジョンを抱きつつある段階ですか?

 講演でよくある質問が「量子コンピュータはいつできるのですか?」なんですね。ところが、私はその質問を受けた時に必ずこちらから聞き返すんです。「何ができれば、量子コンピュータができたことになりますか?」と。すると答えは返ってきません。ここではっきりしているのは、量子コンピュータの確たるイメージがないということです。言葉の印象はいい。何かすごいコンピュータみたいだ、と。人々に夢を抱かせる意味では言葉は大切ですが、人によって描いている量子コンピュータのイメージが異なるのが現状です。


実用化の可能性


「固有の科学を進めるための本質的な道具として、量子コンピュータが役立つという位置づけになると思います。」

____では、「量子コンピュータで何をしたいのか」「何ができるのか」が問われることに?

 専門家の中でひとつはっきりしているのは、因数分解が速くできるということ。しかし、因数分解ができることで恩恵をこうむるのは、情報セキュリティーにかかわっている、暗号がらみの仕事をしている人たちでしょうね。次に最近、よく聞こえてくるのが、コンピュータの中で物理実験的なシミュレーションが行えること。これは「計算物理学(※7)」といいます。現在のコンピュータの内部は0、1の世界ですが、量子コンピュータになると0と1の「重ね合わせ状態(※8)」を使います。
※7 計算物理学…解析的方法や実験的方法だけでは解決困難な物理学の各分野の重要課題を高性能計算機システムをもちいて数値的方法によって解明することにより、物理学の新たな展開を目指す学問。
※8 重ね合わせ状態…ビットの単位である1つの量子が「1」でもあり「0」でもある可能性が特定の確率で存在することを表現する状態。
重ね合わせ状態はミクロの世界、電子や光子などミクロな物理系を支配している基本原則。普通のボールですと、A地点にあるかB地点にあるか、どちらかに決まってしまうわけですが、電子のように小さなものですと、どの地点にあるのかは観測してみるまでは決められなくて、A地点にある状態とB地点にある状態が重なり合って存在していることになってしまうわけです。A地点が0を表現していて、B地点が1を表現しているとするなら、0と1の重ね合わせ状態を持っているような何かビットが存在することになる。これが「量子ビット」です。重ね合わせ状態を表現できるなら、ミクロな物理系を自然な形で表現できます。現在のコンピュータより実際の物理系に近い情報表現ができるわけです。コンピュータの内部で物理実験的なことをシミュレーションする場合、たとえば「未知の分子を合成しよう」という実験で、未知の分子の性質は合成してみるまでわからないわけですが、事前に「どういう分子ができるのだろう」とコンピュータの中でシミュレーションしてみて、「これはいい性質の分子だから合成しよう」ということが可能になるわけです。

____先に使用目的を定めてから量子コンピュータを考案するというスタイルはありますか?

 たとえば医療分野なら「こういうコンピュータが完成すれば、この病気の治療薬が開発できる」と気づいた時に量子コンピュータ開発のための様々な情報が集まってくる。それが正しいイメージだと思います。講演会ではよく「量子コンピュータのOSはどうやって書かれるのか?」という質問があがりますが、私の考えでは基本的に量子コンピュータのOSが書かれることはないと思いますね。OSがなぜ必要かといえばそのコンピュータが汎用機だから。量子コンピュータは汎用機という位置づけになっていかない、基本的に専用機としてつくられていくだろう、だからOSは必要ない、というのが私の考え方です。専用機はやりたい仕事に依存して設計されるものですので、ニーズがないとダメなんですね。処理をスピードアップしたいという問題を抱えている方が「量子コンピュータの機能としてこういうものが可能ですよ」と提示されてきた時に「それだったら音響室の設計に使えるじゃないか」「新しい医薬の合成に使えるぞ」という、ニーズに先導される形で専用機がそれぞれの分野でつくられていく。たとえば因数分解マシンをつくらなくてはいけないと決まったら、基礎研究の人は「こういったことならできますよ」、ものづくりの人は「こういったものならつくれますよ」と、それぞれが言いますよね。それを横で見ていたビジネススタイルの人が「そういうことができるのであれば、こういうゲームをつくればいいんじゃないか」というような展開になっていく。画期的な何かが生まれた時に「量子コンピュータってこういうものだ」ということが決まるのかもしれません。


自然と科学と文化の先にある姿

※9 量子論…原子や電子のようなミクロな物理系を対象とする物理学。電子は波の性質を併せ持ち(電子の波動性)、電磁波(光)は粒子的な性質(光子の概念)を併せ持つため、量子力学を用いて理解される。
※10 ソフトコンピューティング…ある程度のあいまいさを許容し、むしろそれを活かして問題解決を行う情報処理法。ファジィ理論、カオス理論、遺伝的アルゴリズムなど様々な分野がふくまれる。
※11 量子コンピューティング…量子力学の原理、法則を計算の世界に取り込んだ研究分野。

____研究の分野もよりボーダレスになっていますか?

 私自身はコンピュータサイエンスの研究者ですが、従来のコンピュータサイエンスは完全に数学の一分野で、その中で閉じていました。物理現象は対象外だったわけですが、量子コンピュータの理論が登場してから物理の世界にも片足を突っ込むようになりました。量子コンピュータには「量子論(※9)」のような原子・電子のミクロの世界の理論が背景にあります。それは自然界に関する理論で、数学的な理論の背景に存在しているわけです。これはコンピュータサイエンスの進化の過程なのかなと思うんです。従来は数学の一分野として、かっちりと「0か1か」の世界で構築されてきましたが、それはそれとしてコンピュータサイエンスの柱として残り、一方では「ソフトコンピューティング(※10)」と呼ばれる自然界に学ぼうという考え方が出始めているんですね。「量子コンピューティング(※11)」とは、量子力学の原理を計算の世界に取り込むことですが、それと類似の分子計算やDNA計算とか、脳型計算とかいろんな分野があります。共通するのは半導体でできている「01」の世界でなくて、人間の脳だとか、自然に存在している物理系とか、自然界にあるさまざまなものが計算を行っていると見 立てていることです。人類にとってのコンピュータは制御できることが条件です。入力ができ、出力を取り出すことができないと、使えるコンピュータとは言えません。 光子や量子は自然界に存在するままの状態で、放っておけば良いのではなくて、それを制御して所望の状態変化をさせなければいけないわけです。所望の状態変化させて答えを 取り出すというところまでできて、初めて量子コンピュータとなる。実は自然界はいろいろな問題解決を行っているわけです。たとえばタンパク質が最適な形に落ち着くことを見ても、限られた動作かもしれないが、現在のコンピュータを使って処理するにはとても難しいことを瞬時に行っている。これは学ぶべきことである、と。

____やがて量子コンピュータを通じて21世紀の価値観のベースになるようなもの生まれるかもしれませんね?

 コンピュータの適応範囲はひろがっていきます。その過程を通じて、たとえば環境問題、経済問題、意識・無意識という脳の問題など、あらゆる現象を計算の言葉でとらえてみて、表現し直し、それがうまくできればコンピュータの世界に投影し、シミュレーションを重ね、検証することができます。環境やエネルギーといった固有の科学を進めるための本質的な道具としてコンピュータが役立つと思います。古典物理学を基礎とする考え方から量子物理学を基礎とする考え方に変更していった時にいろいろな分野、脳科学も心理学も経済学の分野も変化していくわけです。ダウンサイジングの過程で量子論は見えてきましたが、一方でコンピュータサイエンスの新たな発展として自然が実際に行っている処理に学ぶという二つの流れがあり、その二つが合致するところに量子論は位置していたのだと思います。幸いテクノロジー的に物理的実現が難しかったことが研究成果によって、より手の届く範囲になってきました。高いレベルで量子コンピュータについてデイスカッショ ンできるのは世界を見渡しても欧米と日本くらいです。いろいろな分野の方と会い、21世紀を見据えた時に魅力的なキーワードを並べてみると、やはり量子、バイオやナノテクノロジーが挙がります。人類にとって宿題として残されている課題を解くベースに量子論が存在しているのだと思います。

____本日は難しい理論や現状をわかりやすく説明してくださり、ありがとうございました。



 400桁の暗号解読には現在のスーパーコンピュータでも何十億年かかるが、量子コンピュータなら1年程度で済むといわれている。しかし、「量子コンピュータが人類に何をしてくれるのか?」という質問を放つ前に、「人類は量子コンピュータをどのような目的で使いたいのか」という姿勢が問われているのでないだろうか。それは様々なジャンルから英知を集め、どのように役に立てるのかという目標を見定めなければ意味を成さない。つまり量子コンピュータが決める問題でなく、人間が自らの意志で「選択する未来」なのだ。たとえばこれまで未解決であった問題やイマジネーションを実現化するために用意されている、21世紀の必須アイテムが量子コンピュータなのかもしれない。そこから未来の扉が少し見えるようだ。

text by 倉田 楽


西野博士のインタビューを深く知るためのミニ用語解説

※1 量子チューリング機械…理論物理学者ディヴィッド・ドイッチュが提案した新しい計算モデル。量子チューリング機械のテープの1マスには、0と1の任意の重ね合わせが書き込める。
※2 コンピュータサイエンス…計算機科学と訳される。離散数学を基盤とし、コンピュータのハードやソフトを実現するために不可欠な基礎理論である。
※3 RSA暗号…1977年、当時マサチューセッツ工科大学に勤務していた3人の研究者によって発明された数値上の公開鍵暗号方式。3人の名前の頭文字をとって命名。現在、インターネット上でもひろく用いられている。
※4 アルゴリズム…9世紀頃のアラビアの数学者アルクワリズムに由来。計算機を動かすためのプログラムに相当し、問題を解くために実行する特定の手続きのことをいう。
※5 量子工学…原子や分子など量子力学的対象の応用に関する科学技術の総称。
※6 量子ビット…量子計算の基本単位の呼称。量子演算を行う情報の最小単位で、デジタル信号の1ビット(0または1)と異なり、0と1の「重ね合わせ状態」を取り得る物理系により構成される。
※7 計算物理学…解析的方法や実験的方法だけでは解決困難な物理学の各分野の重要課題を高性能計算機システムをもちいて数値的方法によって解明することにより、物理学の新たな展開を目指す学問。
※8 重ね合わせ状態…ビットの単位である1つの量子が「1」でもあり「0」でもある可能性が特定の確率で存在することを表現する状態。
※9 量子論…原子や電子のようなミクロな物理系を対象とする物理学。電子は波の性質を併せ持ち(電子の波動性)、電磁波(光)は粒子的な性質(光子の概念)を併せ持つため、量子力学を用いて理解される。
※10 ソフトコンピューティング…ある程度のあいまいさを許容し、むしろそれを活かして問題解決を行う情報処理法。ファジィ理論、カオス理論、遺伝的アルゴリズムなど様々な分野がふくまれる。
※11 量子コンピューティング…量子力学の原理、法則を計算の世界に取り込んだ研究分野。

書籍の解説

「量子コンピュータの理論
−量子コンピューティング入門−」
発行:培風社 価格:3,300円+税

量子コンピュータの理論モデルは、理論物理学者D.ドイチェ博士が、自説の平衡宇宙論を説明するための手段として、量子チューリング機械を発案したことに始まる。そして、P.ショア博士が量子チューリング機械上で因数分解が高速に行えることの数学的証明に成功し、世界的話題となる。おりしも、RSA公開鍵暗号の安全性の議論とともに一躍、量子コンピュータ研究が脚光を浴びることとなる。本書は日本の量子コンピュータ研究の現状を紹介し、計算論、量子計算、量子計算量等の理論について解説するもの。付録に世界的研究拠点であるロスアラモスのデジタルアーカイブの主要論文リストを収録しており、これから研究を始める読者への便もはかっている。




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