土橋裕子さん / Yuuko Dobashi

1962年、千葉県出身。大妻女子大学短期大学部家政科卒。82年、消防学校入校。95年、東京消防庁の救急技術員の資格を取得して救急隊員となる。98年、救急救命士の国家試験に合格。2002年4月から、東京都江東区の城東消防署警防課に配属、同庁初の女性救急隊長に任命される。

救急救命士とは何か

厚生労働大臣の免許を受け、医師の指示のもとに救急救命処置を行う者。搬送途上における医療の充実を図るために、救急救命処置を医師の指示のもとに行うことができる資格を定めた「救急救命士法」(1991年に施行)により法制化された身分制度である。消防職員の階級制度と救急救命士制度の資格はそれぞれ個別のもので、隊長だから全員が救急救命士であるということではない。なお消防署では、救急活動に出向くことを救急出場(しゅつじょう)と呼ぶ。

生死の境界線にいる病人やけが人を救急車で病院に搬送する救急隊。救急処置をほどこしながら病院へ向かう道は、命をつなぎとめておく距離であり、一刻を争う搬送の時間は人生で最も重い時間かもしれない。2002年4月、東京都江東区城東消防署の土橋裕子さんは東京消防庁初の女性救急隊長に任命された。重責を担うチームのリーダーは、現場で何を思い、いかにして瞬時の判断を下しているのだろうか。命を預かる距離と時間。その間にのしかかる強烈なプレッシャーは、私たちが経験したことのないたぐいのものであろう。なぜ彼女はその「仕事」を続けるのか。土橋さんに救急活動に携わる者だけが語ることのできる話を尋ねた。突然の死を考えることが、充実した生を考えることのきっかけになるかもしれない。


救急隊員という仕事に就かれたきっかけは?

そもそも女性が交替制とはいえ、24時間の勤務に就くようになったのは平成6年からです。現在でもいくつかの限られた職種しかできませんが、まず24時間体制の仕事に入ってみたいと思ったんです。男女雇用均等法に基づいて労働基準規則の一部が改定されるまで、女性に泊まりの勤務はまったくなかったんですね。デスクワークを中心に、他に消防法に基づく立ち入り検査(査察)や防火防災の教育指導として事業所や学校の訓練に出向する仕事が主に女性の職種でした。女性にも新しい可能性が広がったので、救急の資格を取って救急救命士の受験資格ができた時から試験にチャレンジしようと思っていました。それまでは私も普通のOLさんと同じように朝8時半に出勤して、夕方5時15分が正規の勤務時間でした。

24時間勤務の基本は、署に待機することですか?

基本は待機で、拘束が大前提です。署に待機するイコール、大げさな言い方ですが、外には一歩も出られない状況です。いつ出場が入るかわかりませんから、たとえばお昼を食べに外出するということも許されないわけです。正確には24時間10分は、署に待機しています。そういう体制であることを知った上で、あえて飛び込んだのですが、正直言って不安はありました。初めて24時間体制の救急隊員としてスタートした時、「自分に務まるかな?」と思いました。救急救命士の資格は取ったものの、体力とメンタルの両面で24時間10分を持ちこたえることができるのか、と。この仕事を選んだら、終わりはないんです。1ヶ月間だけやって終わるものではなく、職種が変わるまで、あるいは何かのきっかけでデスクワークに戻るようなことが起るまではエンドレスなので、とても不安でした。

隊員と隊長との決定的な違いは何ですか?

決定的に違うのは、責任の重さですね。隊員の時は自分に任された任務を全力投球していれば良しとされていた部分がありましたが、隊長になると、隊長、隊員、運転する機関員、この3名の全責任を担うことになります。チームとして心がけておかなければならないことの優先順位はつけがたいですが、何秒を争うこともありますので、瞬時の判断が要求されるんです。状況を把握して、どの方法がベストであるかをその場で判断する。一度判断したことは信念を持って全力を尽くしてやり遂げなければならないのです。救命処置の判断は時間的に戻れないので、プレッシャーたるや相当なものです。ストレスもあります。救急出場の指令を聞いた瞬間からプレッシャーを感じますね。経験を積んでいても、毎回初めてと同じ状況なんです。何が起るかわからないし、二度と同じことや100%同じ状況はありえないということです。ですから食事をしている時でさえも気は抜けません。

瞬時の判断力とは、訓練で養うものですか?

訓練は大切です。トレーニングしていないことは、現場では絶対発揮できません。いい方にころべばラッキーですが、我々の仕事の場合、火災現場や事故現場では幸運を当てにはできないし、当てにしてはいけないんです。災害現場にラッキーというものはありえません。どちらかと言えば、アンラッキーになることが多いわけです。「甘く見る」はタブーです。その程度であろうという認識で現場に行ってみると、予想以外のことが起っていて、対応に遅れを取るとか、予期せぬことだったので頭の中が真っ白になる、パニックに陥るなどします。ですから、どちらかと言えば、最悪の事態を選択肢として持って行くくらいでないと務まりません。出場の指令は119番が入って、大手町の災害救急情報センターから出されます。基本的には性別、年齢、状況、どのような要請の内容なのかといった情報が入ってきます。しかし、実際には通報者の方も慌てていたりしますので、現場に行ってみると、通報内容とまったく違っていたということもあります。病態として「胃が痛い」という内容で情報が入っても、実際にそれは胃でなくて心筋梗塞による胸部痛であったりするわけです。ですから、「ああ、胃が痛いんだな」という安易な気持ちでは行かれません。ひとつのポイントになる言葉から想像しうることすべてを考え、自分が尽くせるいくつかの処置なり、複数の方法を考えて出場しなくてはいけないんです。

現場では患者さんのご家族や同僚の方の精神状態は尋常でないと思いますが、その時、どのような心構えでいらっしゃるのですか?

周りからは「冷静だ」と言われますが、自分もプレッシャーを感じています。現場に着いて「城東消防署の救急隊です」と名乗り、我々が教護のために来たことを伝える。次いで処置の内容を伝え、慌てているご家族に状況を判断し、冷静になっていただく。患者さんを優先的に診ながら、時にはご家族の方を励ましたりします。「今からすぐに患者さんを診ますから、安心してください」とご家族に言いながら、実は冷静さを取り戻すために自分にも言い聞かせているのです。現場に着いた。私はこれから救急隊を務める、という意志表示をすることで自分を鼓舞するのです。

冷静を保ちながら的確な判断を下す。そのためには訓練の他に経験も大事なのでは?

経験は良くも悪くも「慣れ」を生みますから、常にいい方向の「慣れ」でなければいけません。たとえば前回こういうところが足りなかったから、次はもっとこうしてあげたい、という次へのステップアップにつながる「慣れ」でないといけない。悪い方向に慣れてしまえば、どんどん手を抜くわけです。そうならないように自分を次に向かわせることが、自分の成長の糧です。救急隊長として、隊員、機関員を思いやることはもちろんですが、医療従事者とのチームワークをつくるとか、そういったことすべてに気配りができるような人間へと成長していかなければならない。そういうふうにするための、いい「慣れ」をつくっていかなければいけないと思いますね。

責任感やプレッシャーを跳ね除けるための、メンタル面の訓練もあるのですか?

メンタル的なフォローや訓練は、大切な部分ですね。それは個人に任されている場合も多いと思います。東京消防庁の場合は、精神的なストレスをフォローしていくために惨事ストレス対策を制度化しています。救急だけではなくて、凄惨な災害現場に出場した救助隊員やポンプ隊員などのメンタルな部分のフォローをしています。私は勤務明けや休日になったら、ガラっとライフスタイルを変えます。そうしないと心身ともに続きませんね。

救急隊員は心身ともに絶えずベストの状態にしておかないといけませんよね?

私の経験から言って、100%の状態を維持しようとすると、とても疲れますね。ですから目標を80%に置き、残り20%は「たまには風邪もひくだろう、たまには熱も出るだろう」といった具合に余力をキープしておいて臨むのです。常に100%でいるということは、何事においても無理が生じます。無理が何らかのひずみとなり、現場で失敗につながるのであれば、8割を自分のベストとしておこうと思っています。実際、救急隊はまず睡眠を取れません。深夜帯もほとんど出場しています。食事も三度、きちんと取れるわけではなく、またゆっくり食べることもできません。ゆっくり入浴するということはなく、どんなに汗をかいていてもそのまま24時間我慢しなくてはなりません。自分の布団で寝られるのが一番の幸せですが、そんなことは言っていられません。しかし、風邪が流行っている時には風邪をひいてしまう。でも、風邪をひくのは仕方ないじゃないか、と自分に言い聞かせます。風邪をひいたら長引かせずに早く治そう、というくらいの余力がないと続きません。「絶対に風邪なんかひかないぞ」と、頑張り続けることは大切ではないと思うのです。

他人の生死を見ることが日常になったことで、大きく人生観が変わったようなことはありますか?

死というものは、当然誰にでも一度は訪れますよね。それがいつ来るかはわかりません。でも、明日かもしれない、と思うようになりましたね。病気を患っている方で、告知を受け、余命を周知している場合でも、その日その日、朝が来て夜が来て、懸命に治療を受けている。死が近いことを周知していても、いつ死が訪れるのか誰にもわからない。それはある日、突然、自分の身近な家族に起るかもしれないし、私が今日、搬送する患者さんの中に突然、死を迎える方もいるかもしれないと考えると、一日一日平凡に同じように過ぎているように見える毎日を、大切にしなくちゃいけないと思います。また、家族、友人は大切にしたいと思うようになりましたね。

患者やその家族の人生とともにご自身の人生をも照らし合わせてみる、ということもありますか?

様々な場面で思いますね。いくつか経験した中から例を挙げます。その方は大工さんだったんですが、地方から都内の現場に仕事に来られ、突然、「頭痛がする、気分が悪い」と言って倒れられた。私たちが到着した時には、意識があり、少し話ができる状態でした。名前をお聞ききして、今の状況は「頭が痛い」ということがわかりました。結果としてはくも膜下出血だったんですが、かなり危険な部位のくも膜下出血で、そのまま意識を失われて、病院に入った時には、もう意識のない状況でした。ご家族がかけつけて、その後のことはプライバシーにかかわるので救急隊も聞けないのですが、私のわかる範囲では、その方が最期に会話をしたのは私だったということです。ご家族でも親友でも同僚でもない、初めてその場で会った救急隊の私と会話をした。仕事とは言え、最期に会話をしたのが私で良かったのか、もっと言いたいことがあったのではないのか、と問わずにはいられませんでした。私は仕事上、どこが痛いのかといったことを聞かざるを得ない。それ以上どうしてもあげられないわけですが、もし本当にそれが最期の会話だとするなら、心残りだったのではないのか、と。他に電車の中で突然倒れられた40代くらいの男性の方がいました。結果的に心筋梗塞だったのですが、その方は病院に入って間もなくしてお亡くなりになりました。ご家族は奥様と中学生か高校生くらいの息子さんが駆けつけてきましたが、間に合いませんでした。奥様は処置室に入った時から泣き崩れていらっしゃったんですが、息子さんが「ちくしょー、何でだよ、どうしてこうなるんだよ」と叫ぶ声に、私たちは何も応えてあげることができませんでした。結局、その方の倒れた直前の姿、最期の姿を見ているのは私たちです。いつも通りの生活をしてきて、突然、プツっと糸が切れたようになる。その方の最期の姿を見たり、会話をしたりするのが私たちであることを思うと、救急処置や救命処置は大前提ですが、それ以外にも尽くせるすべての手段、何かしてあげられることがあるとすれば、してあげなければいけないと考えるようになりました。ご家族を迎えるにしても、連絡をするにしても、最善を尽くすべきで、1分でも1秒でも早く連絡してあげれば、意識はなくても、医師が臨終を告げる前に間に合うかもしれない。その場、その場にあった最善を尽くさなければならないという責任を常に感じています。

救急隊員とは、世間で言う「仕事」、つまり利益を上げる「ビジネス」というものでなく、それとはまったく異なる何かに支えられているように思いますが?

この仕事でお給料を頂いているから、もちろん仕事なのですが、自分を支えているものとして一番近い感覚は使命感ですね。本来、助けを求める人が少なければ少ないほどいいわけです。私たちが暇であることが社会では幸せなのです。でも、助けを求めている人がいる限り、私たちは行かなければならない。この仕事を続けてきて一番良かったと思うことは、助かるべき人が助かることです。救命の処置が早く着手されて、亡くならなくてもいい方が病院に搬送されて、命を取り留め、家族のもとに戻っていく。呼吸だけが、脈だけが回復するという状況ではなくて、意識が戻る。ご家族との意思の疎通ができ、最終的には社会復帰できる。そういった方が一人でもいてくだされば、それが私たちにとって一番の心の支えですね。

本日は貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。



救急隊員は危機に瀕する人を救命する「仕事」である。しかし、「ビジネス」ではない。重責を担う土橋さんだが、その口調からは日々の充実感が伝わってくる。短い時間ではあるが、かけがえのない多くの命と真剣に向かい合ってきた者だけが宿す、深いまなざしと潔さが共存していることが伝わってきた。リアルな死を知っている者は、リアルな生を体現できるのかもしれない。



救急振興財団
消防機関の救急救命士養成、調査研究他
http://www.fasd.or.jp/

全国救急救命士教育施設協議会
http://www.sho-oh.ac.jp/jesa/


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