未来への質問状─量子コンピュータは人間に何をもたらすのか─

特別連載:量子コンピュータVol.4
『未来への道標、量子コンピュータ』

量子コンピュータの研究には、知の飛躍をもたらす予感がつきまとう。
リンククラブでは、やがて来る未来の象徴として、
この量子コンピュータに注目してきた。
しかし、様々な研究が進められているものの、そのコンセプトを捉えるには、今持っている知識や概念では太刀打ちできない。
そこにあるのは曖昧模糊とした雲のようなもの。
つかもうとすれば、姿を変える。
実際、この量子コンピュータなるものが実現するかどうかさえ、定かではない。

しかし、そこに手を伸ばそうとするその試みから、
人間が様々な新しい世界に遭遇することになるだろう、という事はたしかだ。
人間の意識、物質の定義、それらの関係性などについて、
新たな発見が生まれてくるだろう。
量子コンピュータを理解するには、自らが多次元になる必要がある。
今、観ているものの隣には、観えない世界がきっと存在する。

量子コンピュータが見せる新しい世界観

何億年もかかる暗号解読を瞬時に終えてしまったり、膨らむWWWから瞬時に目的のページを検索したり……。もっとも、量子コンピュータは実用的な面だけに限って見ていては、その真価を見逃してしまう。これまでの連載では、量子コンピュータが今の閉塞感を打ち破って新しいパラダイムをもたらす可能性について見てきた。

では、その原動力は何か?

それは、量子コンピュータの核心部分にあたる量子力学にある。量子の世界とはどのようなものなのだろうか?

量子の世界で
「観察」という行為が持つ意味

[図解1(A)の解説]
(A)の奇妙な現象は、昔から「シュレディンガーの猫」という話で説明されている。シュレディンガーは20世紀前半に活躍した量子力学の立役者の一人だ。シュレディンガーは猫という身近な存在を引き合いに出し、この現象の奇妙さを強調したのだ。具体的な内容は、以下のとおりだ。
 まず箱の中に猫を閉じ込める。この箱には恐ろしい仕掛けが施してあり、量子的なスイッチで毒ガスが発生するようになっているのだ!量子的なスイッチとは、確率的にONになるスイッチのことで、図で説明している。つまり、確率的に猫は殺されてしまうということになる。ところが、箱を開けるまで、猫が生きているか死んでいるか分からない。もう少し正確に言うと、箱を開けるまでは、猫は「生きている」と「死んでいる」という二つの状態の重ね合わせになっているということだ。「重ね合わせの状態」というのは量子の世界に特徴的な性質だ。つまり0でもあるし1でもあるという状態のことだ。ところが、私たちが箱を開けて猫を観察すると、猫は生きている状態か死んでいる状態のどちらかになってしまう。つまり、0か1のどちらかの状態に落ち着いてしまう。
 このたとえ話で注目してもらいたいのは、箱を開けるという観察行為が、重ね合わせという量子的な状態を破壊してしまうということだ。通常の(古典的な)世界では、私たちの観察に関係なく、猫の運命は箱を開ける前から決まっているはずだが、量子の世界では私たちの観察なしには猫の運命は決定しないのだ。もちろん猫というのはたとえ話で、量子コンピュータでは、原子や電子、光子がこの猫に相当することはお分かりだろう。

かつて、天文学者は複雑な星の運動をつぶさに観察することで、一連の法則を導き出した。多くの抽象絵画の巨匠もそうだろう。対象の徹底的な観察のなかに、そのエッセンスを見出してきたはずだ。そう、対象を自分のものにしたければ、まず十分に観察することから始めよというわけだ。ところが、量子コンピュータの場合はどうだろう?量子コンピュータの根底にある量子力学では、この常識はまったく通用しない。量子の世界で、観察という行為はまったく別の意味をもっているのだ。次の二つがそうだ。

  • (A)量子の世界では観察という行為は破壊的だ。観察によって対象の量子的な情報は失われてしまう。(図解1)
  • (B)量子力学の教えるところでは、一度の観察で対象のすべての情報を引き出すことはできない。(図解2)
[図解2(B)の解説] 一度にすべての情報を引き出すことができないという量子力学の大原則は、「不確定性原理」と呼ばれている。原子や電子、光子にはさまざまな情報が備わっているが、必ず対になる情報がある。例えば、原子では、速度情報と位置情報が対になっている。不確定性原理は、対になる情報は、どちらかがハッキリすると、どちらかがボンヤリすると教えている。つまり、原子の速度を特定しようとすると位置は曖昧になるし、その逆も然りである。

曖昧な状態を
意図的に作り出す

従来のデジタルコンピュータは、素子に電子が存在するかどうかを0と1に対応させている(もう少し正確には、基準の電荷量をこえて素子が帯電しているかを0と1に対応させている)。デジタルコンピュータに曖昧さの入り込む余地はないし、むしろ許されないと考えるべきだろう。こうして0か1をはっきりと区別しながら演算は進んでいく。

ところが、量子コンピュータでは、意図的に0と1の区別を曖昧にしてしまう。つまり0と1の重ね合わせの状態を作り出してしまうのだ。原子のスピンが上向きの状態と下向きの状態、または電子がある状態とない状態、これらの重ね合わせの状態をつくりだすのだ。他にも重ね合わせの状態を作り出す方法はたくさんあるが、図解のページで二つの例を挙げている。ともに、周期的に信号を送ることで、0と1を区別できない曖昧な状態を作り出しているのだ。こうして0と1の区別は曖昧なまま演算は進んでいく。(図解3)

あらゆるノイズを 外部から遮断する

また、もう一つ重要なことは、曖昧な状態を観察によって壊さないようにするということだ。先にも述べたように観察という行為は破壊的だ。量子コンピュータにとっては、我々の観察も外部からのノイズの一つでしかない。仮に、量子コンピュータが計算しているときに、ほんのわずかな光、たった一つの光子が入り込んだだけでも、重ね合わせの状態は破壊され、量子計算はストップしてしまう。量子コンピュータは徹底的な潔癖症なのだ。我々の世界はノイズに満ち溢れている。光、熱、磁場など、私たちが五感で認識できるものやできないもののほとんどが、量子コンピュータにとっては致命的なノイズなのだ。

では、あらゆるノイズから量子コンピュータを遮断するためにはどうすればよいか?それは、絶対零度に限りなく近い超低温、量子演算をする電子や原子以外は何もない超真空、外部からの磁場の遮断など、とにかく極端な環境を用意してやることだ。現在、多様な量子コンピュータのプロトタイプが提案されているが、どれにも共通することがある。10ページの現在の量子コンピュータの写真を見ていただきたい。そう、驚くほど奇妙な外見をしているということだ。この理由は量子コンピュータの中に、極端な環境を再現する装置が組み込まれているからに他ならない。(図解4)

仮に、観察するだけで情報が失われ、部分的にしか情報を得られないような量子力学を受け入れるとしよう。では、どうやって量子力学をコンピュータに利用するというのだろうか?そもそも量子コンピュータと量子力学は矛盾しているのではないか?量子コンピュータを突き詰めて考えていったとき、誰しもこの疑問にぶつかるはずだ。

しかし、この疑問は我々が日常の常識にとらわれすぎているために生じてくるもの。まったく別の発想によって、量子コンピュータを考えなければならないのだ。観察するのではなく、「観察せずして観察する」ような発想だ。この不可解な発想を実行するためにはどうすればよいだろうか。



[図解3 意図的に重ね合わせの状態を作り出す]

NMR(核磁気共鳴)と呼ばれる装置を利用した量子コンピュータの場合、演算ユニットになる分子に、外部から周期的な電磁波を加える。これにより、分子の持つ情報の一つであるスピンが上か下かわからない状態になる。なお、病院で利用されている脳の断面図などを映し出すMRIは、このNMRの親戚である。

量子ドットと呼ばれる装置を利用した量子コンピュータの場合、スイッチに相当する素子に周期的なオンとオフの電圧を加える。これにより、電子はどちらにあるのか分からない状態になる。

エニアックと
今の量子コンピュータ

ひょっとすると、MacのG5のようにスマートなコンピュータと比べて、今の原始的な外見の量子コンピュータに面食らった読者の方も多いかもしれない。

そこで、ある歴史的な教訓を紹介しよう。G5であれ何であれ、今のコンピュータの樹形図をさかのぼると1946年の「ENIAC(エニアック)」にたどり着く。エニアックは世界初の電子計算機で、真空管1万8千本からなる重さ30トンのモンスターマシンだ。このガラクタのような装置が、いくつもの技術的な発展を遂げて、今のIT時代を築き上げたのだ。当時、エニアックを見た人々は、コンピュータがのちの社会に大きなパラダイムシフトをもたらすことを想像できただろうか。では、こう考えることはできないだろうか。今、私たちが目撃している量子コンピュータのプロトタイプは、かつてのエニアックと同じ状況にあると。

量子コンピュータは従来のデジタルコンピュータとまったく異なる存在だ。量子コンピュータが21世紀の世界を変える可能性は十分に考えられる。しかし、その前に、我々が自分たちの常識から自由になり、量子コンピュータの常識を受け入れることができるか。これこそが量子コンピュータが実現するために、我々に突きつけられた挑戦状のようにも思われる。



[図解4 量子コンピュータの外見]

NMRを利用した量子コンピュータの外見図(左)と演算ユニットとなる分子を溶かしたサンプル管(右)。実際に量子計算をしているのは(右)のサンプル管の中にある小さな分子であるのに対し、外部のノイズに邪魔されずに分子が計算を続けられるようにするためには、(左)の巨大な装置で遮断してやる必要がある。

Text by 辻野貴志



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