未来への質問状

量子コンピュータは人間に何をもたらすのか?

ロジャー・ペンローズ
1931年、英国生まれ。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学を学び、英米の諸大学で教鞭を執ったのち、1973年にオクスフォード大学ラウズ・ボール記念数学教授職に就き現在に至る。一般相対論の世界的な権威として知られ、ステファン・ホーキング博士と共にウォルフ物理学賞を受賞。英国王室より「サー」の称号を与えられている。一般読者向きに書かれた『皇帝の新しい心』は1990年度科学書賞受賞。

量子コンピュータがもたらす可能性とは何か? この問いかけに対して、最近では実用的な面ばかりが強調されている。確かに狭い学術的な関心から抜け出して、広く社会的な関心を集めるようになったのは、量子コンピュータの秘める優れた暗号解読能力など実用的な面のおかげだ。しかし、量子コンピュータが誕生してきたもともとのきっかけは、宇宙論であったり、人の意識とのつながりだった。

量子コンピュータの可能性について、実用面だけにとらわれずに語ることのできる人がいるとしたら、世界で最も注目されている数理物理学者、ロジャー・ペンローズ博士ではないかとリンククラブは考えた。ペンローズ博士は『皇帝の新しい心』や『心の影』という著作で、人間の意識について、独自のスタンスを打ち出した科学者だ。今や、ホーキングと並んで、地球上に存在する最も優れた知の探求者と呼ぶ人もいる。

以下ではペンローズ博士のインタビューの前に、簡単に博士の研究分野について触れておこう。

◆量子力学のラスト・ミステリー

量子コンピュータは量子力学の原理に基づいて計算が行われる。わずか数ビットといえど量子コンピュータが実現していることを考えると、私たちは量子力学を完全に理解しているととらえてよいだろうか?

答えは否。20世紀前半にはほぼ確立された量子力学だが、依然として解決されない大きなミステリーがある。それは一般に「観測問題」と呼ばれるものだ。

今まで観測問題については半世紀以上にわたって多くの物理学者が議論を交わしてきた。とくに量子力学と古典力学とのつながりをどうとらえるかということに最大の論点がある。具体的にはこうだ。

日常生活の感覚とかけ離れた量子力学的な系を観測すると、それはひゅうっと私たちの慣れ親しんだ古典力学的な系に移行する。量子コンピュータ的な表現をするなら、答えを求めた瞬間に、0と1の量子力学的な重ね合わせの状態から、0か1いずれかの古典的な状態に落ち着いてしまう。では、その瞬間に何が起こっているのだろうか?

◆量子で人の意識を語れるか?

この量子力学のラスト・ミステリーに対して果敢に挑戦している代表的数理物理学者がイギリスのオックスフォード大学の教授で、ステファン・ホーキング博士らと宇宙論において華々しい業績を残してきたロジャー・ペンローズ博士だ。そして博士が現在取り組んでいるのが、最も深遠なテーマの一つである人の意識についての研究だ。博士は、量子力学のラスト・ミステリーと人の意識の発生との類似性を発見し、ある大胆な仮説を立てた。ペンローズ博士がこの大胆不敵な考えに至ったのにはそれなりの歴史的な背景がある。

1980年代後半のAIブーム、そして90年代のIBMのDeep Blueのチェスマスターに対する勝利など、当時はコンピュータの発展が目覚しく、人の意識を含めたすべての現象がコンピュータの上で再現できるのではという風潮が強まった。人の脳もニューロンやシナプスといった神経細胞のネットワークからなっており、コンピュータの電子回路と多かれ少なかれ似ているというのだ。

しかしペンローズ博士は、人のインスピレーションや美に対する感動など、およそコンピュータの計算的なプロセスだけでは再現不可能な現象に言及してこの風潮に強く反発した。人の意識の発生には計算的なプロセスだけでは再現できない何かがあるというのだ。ペンローズ博士がAI信奉者に対して提案したのは、人の意識は脳内の量子現象から発生するというものだった。これは、図1に示すように先のラスト・ミステリーと類似関係にある。人の意識というのは環境から何らかの影響を受け、受動的に生まれてくるが、この過程は非計算的なプロセスだというのだ。

脳のどこに意識を生み出すような量子現象があるのか? 脳を一種の量子コンピュータととらえることができるということなのか? 量子力学のラスト・ミステリーの解明は、人の意識の理解に貢献するのか?

ペンローズ博士のインタビューを通じ、我々もほんの僅か、その深淵な世界に触れることができるだろうか?

図1、量子力学のラスト・ミステリーと人の意識の発生との間の類似性

a. 量子力学から古典力学への収束

量子力学的な世界 受動
(観測を受ける)
→→→→→→→
非計算的プロセス
古典力学的な世界

b. 意識の発生

脳内の量子現象
受動
(環境から影響を受ける)
→→→→→→→
非計算的プロセス
意識
  • インスピレーション
  • 美に対する感動
  • かなしみ、よろこび……

ペンローズ博士の
代表的な著作



左:「皇帝の新しい心」
林 一/訳 みすず書房
本体6,300円+税
数学や物理学の専門知識のない人にでも読み解けるように書かれた、相対性理論や量子理論を駆使して述べられる「人の心」の存在。

中:「ペンローズの量子脳理論」
竹内薫、茂木健一郎/訳・解説 徳間書店 本体2,200円+税
ミクロ宇宙とマクロ宇宙を繋ぐ意識の新しい物理法則。量子重力という数学的心理の内に「脳に宿る心の本質」を極めようとするペンローズ博士の世界をインタビュー、論文、解説による立体構成で纏めた一冊。

右:「心の影」1
林 一/訳 みすず書房
本体3,800円+税
「心の影」2
林 一/訳 みすず書房
本体3,900円+税
人の脳の感情的な働きは、脳内で量子コヒーレントな振る舞いが鍵となっている、との論旨を軸に語られる量子重力論の世界。


「皇帝の心」みすず書房刊より

1 量子計算は、計算機械の潜在能力に本質的に新しい要素をつけ加えることになると思われますか?

量子計算が何をもたらすのか、理論的にもはっきりしたことはわかりません。その潜在能力について理解するために解明しなければならないことが、まだまだたくさんあるからです。いずれにせよ、量子コンピュータにできるのは、(原理的には)従来型コンピュータにもできることだけです。ただ、理論的には、はるかに高速になりうるのです。「量子並列処理」の途方もない可能性については、しばしば論じられています。ピーター・ショアの量子アルゴリズムはその一例で、量子コンピュータが従来型コンピュータに比べて格段に短い時間で大きな数字を因数分解できることが原理的に示されました。これは、量子コンピュータが公開鍵暗号を解読できることを意味しているため、情報セキュリティーの分野では重要な問題であると言ってよいでしょう。

(一方で、)従来型コンピュータの強みは、その汎用性にあります。計算問題があれば、コンピュータにかけるだけでよいのです。時間はかかるかもしれませんが、確実に解いてみせるでしょう。これに対して、任意の計算問題を量子コンピュータにかけて、量子並列処理の潜在能力を発揮させるような方法は知られていません。

とはいえ、原始的な生物システム(単細胞動物など)は、量子計算に似た量子過程を利用しているのかもしれません。これは私の推測にすぎず、直接的な根拠はありません。ただ、「ヒトなどの動物の複雑な脳が意識的に思考するためには、量子計算を超える何かが必要である」という私の持論からすれば、進化論的には、ある種の量子計算機能をもつ構造が、それ以前から存在していたと考える必要があるのです。

2 量子計算は、究極的には意識を再現することになると思われますか?

いいえ。私の考えでは、意識の発生には計算を超える何かが必要です。量子コンピュータは、計算不可能な問題を扱うものではありません。それはただ、(一部の)計算可能な問題を、従来型コンピュータよりも速く解けるというだけのものです。ここで意識を論じるためには、量子力学を改良して、観測問題を解決できるようにする必要があると思います。だからこそ、私は「OR(Orch-Or)理論」※1に興味があるのです。今日の量子力学は、まったくの混成物です。「小さな」量子的レベルには、量子力学の「ユニタリ時間発展」を記述する(決定論的で計算可能な)シュレーディンガー方程式(U)があり、「大きな」レベルには、古典物理学の(決定論的で計算可能な)方程式(C)があります。そして、「小さな」レベルから「大きな」レベルへと移るためには、「観測」にともなう状態の(非決定論的な)収縮(reduction;R)という、量子力学の残りの半分を持ち出してくる必要があるのです※2。「観測問題」とは、このRという作用がUの範囲外にあることを言います(図2)。量子物理学者は、さまざまな装置や観点や「解釈」を採用して、Rと折り合いをつけようと試みてきました。けれども私は、このどれも成功しているとはいえないと思います。私は、Uの範囲外に出る覚悟をした上で、今日の理論が、まだ詳しくは解明されていない「客観的な状態の収縮(objective state reduction)」の理論の(よくできた)近似にすぎないという立場が必要となると考えています。私は、意識という現象を科学的世界観の中に引き入れるためには、OR理論を完成させる必要があると考えています。

  • ※1、Orch-Or(OR)理論
    量子力学と古典力学のつながりを説明するのに、ペンローズ氏がなくてはならないと考える理論。この理論では、図2に示す現在の一般的な理解は、あくまでOR理論の近似にすぎないという。ただし、このOR理論はまだ具体的な形ができ上がっているわけではない。
  • ※2、量子力学と古典力学のつながりの現在における一般的な理解
    基本的には図1に示したような関係になっている。ペンローズ博士の定義しているC、U、Rといった表現で図1を描き改めると図2のようになる。
  • 図2 現在の一般的な量子力学と古典力学のつながりに対する理解
    [小さな]レベル
    U
    量子力学的な世界
    R

    観測を
    受ける

    [大きな]レベル
    C
    古典力学的な世界
    決定論的な系
    計算可能
    非決定論的プロセス
    計算不可能
    決定論的な系
    計算可能
  • ※3、巨視的なコヒーレント現象
    通常、量子力学的な現象が現れるのは、電子1個だけといった非常に「小さな」レベルにおいてである。しかし、なかには数億、数兆といった電子が一同に振る舞い、あたかも一つの電子のような振る舞いをすることがある。これを「巨視的なコヒーレント現象」と呼んでいる。ただし、巨視的とは言っても、私たちの日常的な感覚「大きな」レベル(電子の数でいえば1023個程度の世界)と比べるとはるかに小さい。
  • ※4、高温超伝導体
    液体ヘリウム(−269℃)による冷却で発現する超伝導については理論が提案されており、その提唱者三名には1972年にノーベル物理学賞が与えられている。しかし、1980年代より、液体窒素(−196℃)による冷却でも発現する超伝導体が次々と発見された。これは以前の超伝導に関する理論では説明できない現象だった。現在でも、この高温超伝導に関しては完全な説明はされていない。なお、高温超伝導の理論を確立すれば、間違いなくノーベル賞を取得することができるとされている。
  • ※5、微小管
    体温という「高温」な脳内で、巨視的なコヒーレント現象が起きている場所と考えられる最大の候補。微小管とはすべての生物の細胞にある中空の管の器官である。この器官が最大の候補として考えられる理由は次の二つである。一つ目は、微小管は筒状で内部の空間が外の環境から遮断されていること。量子現象が発現するためには、外部からの遮断が重要となる。二つ目は、微小管がどれも必ず同一の幾何学的構造をとっているということ。幾何学的なものも含め、秩序のある構造体において量子現象が起こりやすい。
  • ※6、ツイスター理論
    これまで互いに相容れなかった一般相対性理論と量子力学を統一して量子重力論を展開し、宇宙とはどんな全体像なのかということを解明する理論。万物の真理を貫く理論。

3 「意識を発生させる脳内での現象においては、量子計算が中心的な役割を果たしている」という博士の描像に対して、一部の人々から、温度などの問題があるのではないかという指摘が出ていますね。それでもなお、物理的に意識を発生させるためには量子計算が必須であると博士はお考えになるのでしょうか?

今出てきた指摘以上に状況は深刻です。なぜなら私たちは、生きた脳の中に、ある複雑な構造や組織を見つけなければならないからです。その構造では二つのことが重要になります。一つ目は大きなスケールでのコヒーレントな量子過程※3が起きていること、二つ目は脳内の量子的挙動の脱却から意識が発生するということです。つまり、ほとんど解明されていないORと今日のR手続きとの違いが重要になるような構造でなければならないのです。

こうした構造が見つかる可能性は低いでしょうか? 観察された既知の構造しか考えてはいけないのなら、私はきっと「イエス」と答え、あなたが言及された人々に賛成することでしょう。けれども実際に、人々はあちこち歩き回っては、単なる計算ロボットとは違って意識をもつことを示唆する、なんとも不思議な振る舞いを見せているではありませんか?

ですから、生きた脳の中で何が起きているのかを理解するためには、もっとよく探してみなければなりません。もちろん、生きた脳の温度の高さは、量子的なコヒーレンスを維持するしくみを理解することを困難にします。けれどもそれは、絶対的な障害ではありません。私たちはすでに、高温超伝導体※4が存在することを知っているからです。高温超伝導体についての理論は、まだ厳密なものではありません。ですから私たちは、このような現象が体温で起こりえないと考える根拠をもっていないのです。体温で作動しうる「量子コンピュータ」が製作される可能性を完全には否定できないと思います。道は始まったばかりなのですから。

けれども、すでに述べたとおり、私たちはこれ以上のものを必要としています。すなわち、UとRだけでなく、ORも必要なのです。私は、体温で機能するUシステムが見つかれば、機能するU/ORシステムも見つかるはずだと推測しています。

(私が脳内の量子現象の発生の場として考えている)微小管※5は、これにふさわしい構造だと言えるでしょうか? 確かなところはわかりませんし、多くの推測も入っていますが、少なくともニューロンの微小管は、私がこれまでに見てきた構造の中で最も可能性が高いと言えます。この点については、今後の(実験を伴う)研究を待つしかありません。

4 人間の知性を理解するために今日の科学者が取り組んでいる問題の中で最も重要なものは何だと思われますか?

OR理論の探究は、その一つだと思います。(ただし)、これはあなたのご質問に直接答えるものではありません。ORの本来の目標は量子力学の謎である観測問題を解決することにあり、意識の問題を直接扱うものではないからです。けれども私は、ORは必要条件であると考えています。OR理論が完成しないかぎり、本当の意味で意識の解明が進むことはないでしょう。意識の問題は、ORよりはるかに巨大であるかもしれません。それでもなお、OR理論なくして正解に近づけるとは思えないのです。私たちは、自分たちが何を探し求めているのかを知っていますし、すべてを計算モデルで説明できるとは思っていないからです。

5 最後に、あなたが今、個人的に最も興味をもっておられる問題は何ですか?

人間の意識の問題には非常に興味があり、神経生物学は魅力的な研究分野だと思っていますが、私は専門家ではありません。ですから私は、宇宙論における近年の発見とORとの関係など、ORの有効性を理解するための研究に集中しています。

また、長年にわたって「ツイスター理論」※6による時空の物理学の概念の変革に取り組んできた者として、この理論がORの解明に役立つかどうかを知りたいとも思っています。これまでのところ、あまりうまくいっていませんが、新しいアイディアがいくつかあるので、その有効性を検証したいと思っています。

私が支持するOR理論の重力版を厳密に検証できるような実験にも興味があります。現在、サンタバーバラの仲間(ディック・ブーミースターが率いるグループ)が精力的に研究を進めているので、数年以内に何らかの成果が得られるかもしれません。



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