「カラダ」で覚える、職人の技刺青ってのは、人間の肌に彫るものだから、練習台なんてない。私の場合、見よう見まねで友達や自分の足なんかに彫っていた過去の経験があったから、弟子入りして2〜3ヶ月経った頃、師匠に「お前、やってみな」と言われた。習うより慣れろってことだな。「どうしてやったらいいか」を質問したからって相手が答えられる世界じゃない。「難しい、難しい、わからない」ってとこを自力で乗り越えていかなきゃいけない。職人仕事ってのは、身体が覚えるのよ。理屈じゃない。自転車乗れなかったやつが跨いであれこれしているうちに気が付くと自転車漕いでるみたいな。そこで初めて彫師としての入り口をくぐったことになるわけ。当然ながら一人前になった訳じゃない。基本的なものは師匠のやり方なんかを見て覚えていくけど、そこから先は個人の努力。技術やデザインは自分で自分のスタイルを創り上げていくしかないから、個性的にならざるを得ない。だから弟子が同じ師匠についても皆違うんだよね。それぞれ個性が出てくる。それが“守破離”ということだね。 どんな職人の世界もそうだと思うけど、技を極めようと色んなものを追っかければ追っかけるほど、遠くなっていくんだよね。ひとつ壁を越えると次の壁が待ってるの。知れば知るほど難しくなってくる。ベテランになればなるほど、何が難しいかがわかってくるから仕事が大変になってくる。駆け出しの時は何が難しいのかもわからなくて、簡単にさらっと流しちゃうからいいものができないのよ。わかってくると難しくなって、四苦八苦して。だから段々いいものができてくるようになる。 ![]() でも、一生懸命やってるからその都度、やり遂げた仕事には満足するよ。だからって半年前のもので満足してるようじゃ進歩してないよね。自分を怠けさせちゃったらそれで終わりだから、常に自分との闘いだね。極端な話、1人彫り終わったら何かしらプラスになってなきゃいけない。そのプロセスを経て、次のステップにいく。経験値イコール修業量だから、経験量が増えれば仕事ができるってことにも比例してくるよね。よくない譬えだけど、たとえば3日前にピッキング覚えた泥棒と5年間やってるやつとじゃキャリアが違う。それと同じことよ。 今の壁は“ぼかし”(ベタやグラデーション、淡い色を入れること)だね。“ぼかし”は永久のテーマ。到達点はないのよ。それでも創り続けるのは、人間の業。職人ってのは一種の病気だね。 アーティストではなく、あくまで職人で在り続けるということ。日光東照宮の眠り猫。あれ“芸術、芸術”って言っているでしょ。でも創った左甚五郎は「俺は芸術家だ」と思って彫ってないと思うのよ。大工だからさ。後世の人が“芸術”って評価しただけのことであって。私も芸術家なんて言われたくない。何て言うのかなぁ。そういう原点の男の突っ張りみたいなところが職人の誇り。つっかえ棒だよね。 「彫よし」を襲名してからは、彫よしの名前をどれだけ盤石なものにできるかを第一にやってきた。個人のプライドなら簡単に捨てられるけど、もっと重たいものがある。先代から受け継いだものに対する責任感はすごくあるよね。責任がなければ、いやんなりゃ投げちゃえばいい。でも襲名しちゃったら辞めたくても辞められない。襲名するってことは、その家そのものを背負ってるみたいなものだから。 「彫よし」って名前は当時から知られてはいたけど、津々浦々とまではいかなかったから、自分の代ではそれを意識してやってきた。プレッシャーや重圧はあったけど、張り合いが違うよね。「世界の彫よしに俺が引き上げてやる」って気持ちでやってきたから。中野って自分の本名より、彫よしって名前の方が有名でしょ。それでいいの。要するに私が有名になるってことは初代が有名になるのと同じことでしょ? 初代がなければ今はないから、自分のためっていうのは、あんまりないね。結果はおのずと自分につながってくるんだから、それでいいんだよ。 手彫りキットを作ったのも、どうしたらいい針が簡単にできるかを提供しただけなんだよね。これまでは皆、道具は自分で作っていたから、いくら年季が入っていても1つずつ違っちゃうんだよね。でもこれを使えば100回が100回、同じ物ができるからいい道具が使える。いい道具が使えるってことはいい仕事ができるってことなんだよ。職人魂のいい面もあるけど、悪い面もあって、それは技術を独りで抱え込んじゃって公開しないこと。私としては、自分の技術を隠して自分だけシークレットでどんどん伸びていくのは嫌なのよ。職人として決して明かせない部分は当然あるけれど、提供できるものはオープンにして、平らな土俵の上で、皆で個性を発揮して勝負していこうっていう。それでないと、職人としてやってきた意味がない。ちっちゃな世界で終わるよりは大きな世界で終わりたい。ちっちゃな世界で終わったら、そこで全部終わっちゃうけど、大きな世界になったら終わらない。私が残した職人の世界、道具の世界はそのまま残っていくわけだから。人間は生きるために何をしていくかじゃなくて、死ぬために何をしていくかなんだよね。今日、読んだ本のなかに「生の最後に死があるんじゃない。生の中に死があるんだ」って言葉があったけど、まさに私と同じ考え。「生の中に死がある」となると、漠然と生きてる余裕はなくなる。それが一生懸命生きているってことだと思うね。
意味を彫る、日本伝統刺青![]() アメリカン・タトゥ−と日本伝統刺青の違いを説明するのは難しい。要するに日本の伝統文化がどれだけ入っているかだね。様式美なんだよ。水墨画や浮世絵、錦絵、武者絵、全部ミックスしたものに、刺青にしかできない表現方法が加わって刺青独特のものが生まれる。日本の場合、伝統が長く続いているから、人間の身体がどうしたら綺麗に見えるかってこともわかっているんだよね。オセアニアやハワイの伝統刺青なんかも長い歴史があるから、それなりに綺麗だよ。 時にはお断りすることもあるよ。これ実際あったんだけど、「唐獅子と酸漿(ほおずき)入れてくれ」って客がいた。「どうしても」って言われたけど、断ったね。そんなこと考える方がおかしいわけ、常識的に。唐獅子には牡丹。何百年ってそれが続いている。伝統を壊すのも大事だけど、壊してちゃんとした意味合いがつけられないと。そうでなきゃ全く無意味なものになっちゃう。意味がないものには値打ちがないよね。 日本の刺青の絵柄には意味がある。たとえば鯉は、中国の黄河の上流に龍門の滝というすごい急流があって、そこを登りきると龍になれるという伝説から縁起がいい。唐獅子牡丹は唐獅子が百獣の王で、牡丹が百花の王。そこで男と女っていうのも対比させてる。要するに皇帝と后みたいな。龍は本一冊書けるくらい意味がある。日本ではだいたい守護の意味、西洋では悪者だね。桜吹雪は大和心。咲いてパッと散るところに桜の潔さがあるから、美学だよね。あとは伝説上の人物だとか。金太郎もあれば桃太郎もある。 で、俺の腕に彫ってある金魚の意味は「煮ても焼いても食えない」。そういうの、洒落で言うのよ。足の甲に蟹を彫って「人生、横に歩く」とか、提灯彫って「足下、明るくなるように」とか。昔、水商売の人達の間で蟹彫るのが流行った。「客を挟み込む」って意味。こういうのは、今は廃れちゃった江戸の粋だね。 彫師は、例えばこういう意味も含めて、より深い知識を責任もって勉強しないといけない。知識も修業のうちに入ってくるわけよ。彫師が「まぁ、いいか」って適当にやっちゃうと、何百年培ってきた文化が滅茶苦茶になっちゃう。彫る仕事ができるようになっただけでは一人前の職人仕事とはいえないんだよね。10年修業してやっと「1年生」ってところかな。そこから本当の修業が始まるんだ。 偏見と誇り刺青の歴史っていうのを一般の人は、意外に知らないよね。大袈裟かもしれないけど、刺青を無視して人間の歴史を跨ぐことはできない。必ずくっついているのよ、人の歴史の裏側にね。刺青が民族と共に育ってなぜ絶滅しないのか。それは人間の本質と刺青が絡み合って連綿と続く、精神的な裏づけで行われてきたから。でも今の刺青について日本人が持ってるイメージって、そういう本質的なものを見ようとせずに、どっちかっていうと悪いところだけピックアップしている感じなんだよね。
刺青の資料館「文身歴史資料館」を開いたのも、刺青を偏見視する人とか、興味本位で見たい人とか、そういう人たちにちょっとでも見せてあげたいなと思ったから。はっきり言って毎月赤字でボランティアみたいなものだけどね。 日本の刺青は、江戸時代から禁令が布告されて、明治維新で警察による処罰の対象にまでなった。明治新政府になったあたりからは、沖縄やアイヌの刺青も禁止された。欧米列強の国々に対して日本は遅れていないことを見せるために野蛮行為として取り締まったんだよね。ところが当の外国人は全くそんなこと問題視していなくて、大津事件で有名なロシアのロマノフ王朝最後の皇太子ニコライ二世や、イギリスとギリシャの皇太子も日本で刺青入れてたし。デンマークのフレデリック国王は刺青びっちりで有名だった。明治時代には、日本の彫師がすごい報酬で招待されてアメリカなどに彫りに行ったという新聞記事が残ってる。要するに、当時の日本の権力者の一方的な物の見方の押し付けが、今までずっと引き継がれてきたんだよね。 でも今の若いコ達はそういう偏見がないから、バンバン気軽に彫って露出して町中を歩いてる。昔は罪悪感があったから親に隠したもんだけど。今の20代のコが生んだ子供が大きくなる頃には偏見はかなりとれてくると思うよ。その代わり偏見がなくなるってことは、価値観がなくなってくるってことでもあるよね。魅力が薄れてくる。そういう意味では、偏見の強い昔の方が刺青に対する重み、存在感があった。「俺はコレで行くぜ」って誇りが偏見に対する快感になるんだよね。「お前ら、勝手に偏見で見てろ。俺は違うんだ」っていう。SMも本来は陰の存在でしょ? 今はそれが単なる遊びみたいになっちゃって。そうなると本当のSMマニアは混同されたくないってプライドがあると思うよ。刺青も同じなのよ。負の部分が強い方が魅力がある。アンダーグラウンドでなければならない、だからこそ魅力があるモノってのがあるのよ。 で、どんな刺青も、彫られてる当人が死ねば、この世から消える。美術品みたいに何百年先まで残るもんじゃない。そういう意味では、刺青は一種の滅びの美学なんだろうね。 Text By 宮腰明美
|