前回の特集では、世界標準という視野で眺めた時、そのエッジには常にユダヤ人達がいることをお伝えした。様々な分野で特異な才能を発揮し続けるのみならず、ユダヤ人には人生の敗者が非常に少ないということも。しかし、彼らが生物学的に優れたDNAを持っているわけではもちろんない。彼らには、リアリティをサバイバルし、人生に実りをもたらす、独自のシステムが存在しているのだ。宗教や思想を客観的に論じることなど不可能ではあるが、その中のほんの一端であるいくつかの側面に光を当て、ユダヤ的システムのエッセンスを感じ取るきっかけを探してみたい。今回、その切り口として選んだのは、「タルムードと論語」というキーワードだ。





★数千年を生き延びた
 二つの書物

世界は常に変化し続けている。今日、正しかったことが、明日は誤りであるかもしれない。そのような不安定な日々の中で、人間は何を基準に「答」を見つけてゆけばよいのだろうか。今、混迷する世界経済の中で、気を吐いている国と言えば、やはり中国の名が思い浮かぶ。中国人もまた、華僑という世界的なネットワークを持ち、着実に富を築いてきた民族だ。そういう視点で眺めてみると、ユダヤ的な世界観と中国的な世界観の間には、いくつかの共通項目がある。たとえば、金銭的な欲求を卑下しないこと、現実的であること、ネットワークを持っていること、などなど。そしてもう一つ、興味深い共通項がある。それは、どちらも生涯を通じて読み続けることのできる書物を有していることだ。ユダヤ人は『タルムード』、中国人は『論語』。

『タルムード』とは、ユダヤの律法をどのように解釈するかという口伝をまとめたもの。いわば聖典の実務応用編のような書物である。その量は膨大で、250万語からなると言われている。『論語』は、ご存じの通り、孔子の教えをまとめた本だ。数千年の間、民族の指導原理として生き続けてきたこの二つの書物には、いったいどんなことが書いてあるのだろうか。

★神と契約したユダヤ人
 約束を重んじる「義」

ユダヤ教の中心理念は、神との契約の徹底遵守である。そう、ユダヤ人は、神と契約を交わした民族なのだ。紀元前13世紀、モーセの前に現れた神は、自らが唯一全能の神であると宣言した。神は、イスラエルの民がそのことを認め、自分との契約を守るなら、永遠の魂の救済を約束すると伝えた。そして、イスラエルの民は、そうすることを「選択」した。原始的な宗教は自然発生的なアニミズムから生まれている。多神教全盛だった当時において、この選択は、前例のない異質さを持っていた。ユダヤ人は、その使命を神によって与えられた選ばれた民であるが、同時にその運命を自ら選んだ民でもあるのだ。

以後、神は、十戒をはじめとして、様々なルールを人間に与えた。それをまとめたのが、『トーラー』(律法書)であり、その解説書が『タルムード』である。『タルムード』には、あらゆる問題についての解釈、解答が用意されている。信仰についての教え、生活習慣はもとより、契約書の書き方、商売の仕方、利子や利息の考え方まで。それを学び、遵守することが、すなわちユダヤ教の信仰なのだ。そのことを各個人が貫徹した時、世界には「義」が出現する。「義人」とは、この「義」の実現の手助けをする人という意味があり、ユダヤ教の中では、最も優れた指導者を表すという。

★天の思想を、社会システムに変換した孔子
 愛を重んじる「仁」

孔子は、教祖や預言者ではない。中国に古代から伝わる宗教観・思想を、社会システムに変換した思想家である。信仰としての儒教もあるが、ここでは儒家の思想に焦点をしぼっていきたい。そもそも孔子は、「儒(じゅ)」と呼ばれるシャーマニズム集団から出自している。「儒」は、祭祀を行い、鬼神と関わる民だった。古代中国では、万物を創造した源を「天」と呼んでいた。それは神と言うより、むしろ宇宙や自然と表現する方が近いものだ。孔子は、この宇宙の理の中で、人間がよりよく生きるためにはどうしたらよいかを考えた。その結果、あえて「鬼神は敬して遠ざける」姿勢を取り、現実社会の中で、人間が倫理的に生きれば、やがて天命を生きる聖人に近づけるし、その結果、すばらしい社会が実現すると説いたのだ。

彼の思想の中心には、「仁」がある。「仁」とは、愛することである。それはキリスト教の慈愛や仏教の慈悲とは、ちょっと違ったニュアンスを持つものだ。天の流れを生かし、自己の欲求から離れ、相手を思いやる心。無為自然というのともまた違って、自分からそうするという主体性が、そこにはある。

そして同時に、天と人間を結ぶ、共通のルールを「礼」として表現した。人間が感性のままに行動すれば、多くの混乱や矛盾が生まれる。しかし、「礼」を守ることによって、自ずと人智を超えた難しい局面も乗り越え、正しい道へ進んでいくことが可能になると説いた。

「義」と「仁」、「律法」と「礼」。似ているようで違うこれらの要素が、ユダヤ人と中国人の生き方の中に、連綿と流れ続けている。

★現世志向・合理性・主体性
 現実をとらえ、目標に向かっていく強さ

ユダヤ教と儒学、二つのシステムに共通するのは、徹底して現世志向であるということだ。天国における救済、輪廻転生などの選択肢は想定していない。現実の中で、一歩一歩進みながら、目標に近づくことを思想の柱としている。つまり、ユダヤ人と中国人にとって、現実からの逃避はあり得ない。今、目の前にある現実の中で、実りを得ることが、神や天へ通じる道なのだ。だから、金銭や富を得ることは、決して悪いことではない。個人が豊かになることによって、他を助け、社会へと還元していくことが可能になるという考え方だ。

また、合理的であることも共通している。ユダヤの律法には、ありとあらゆることが規定されている。そこに曖昧さは一切ない。たとえば、人間には認識不可能な抽象的な観念まで、見事なほどに論理的、数学的な説明がなされている。一方、儒学では、朱子が段階的、因果律的推論の訓練を徹底的に教えた。問いには必ず答がある、という前提で彼らは考えるのだ。

そして主体的に生きるところも似ている。たしかに神や天は、与えるものであるが、彼らは一方的に救ってもらうことを求めない。目標に向かって、自らの意志で進むことが基本である。

★二千年前に存在した義務教育
 学問は蜜の味

ユダヤは、歴史を通して、もっとも教育熱心な民族だった。なにしろ、『タルムード』には、すべての町に学校を作ることが定められている。学校に通うのは、一部のエリートの特権ではない。地域社会の子供達全員に、初等教育を義務づけていた。だから紀元前の時代から、ほとんどのユダヤ人は、読み書きができたのだ。他の文明国の歴史と比較すれば、これがどれほど驚異的なことかわかるだろう。子供の教育は、神に与えられた聖なる義務の中で、もっとも大切なものであるとされている。どんなに貧しくても、教育には妥協しない。五歳になると、『トーラー』(律法書)のページを開き、その上に蜜を一滴落として、子供に口づけさせるという儀式が行われる。ユダヤ人にとって、学問こそ甘いものということを教えるためである。そして、『タルムード』などの経典を何度も繰り返し読ませる。最初は、反復と復唱の徹底教育、次に書かれている内容を自分の頭で考え、検証し、他人と討論する訓練が繰り返される。『タルムード』を学ぶことは、現実社会のシミュレーションとなるのだ。

現代のユダヤ人すべてが、伝統的な『タルムード』の学習をしているわけではないだろうが、教育に対する価値観、徹底した思考の訓練、討論の方法、知恵を現実へと還元する力といった『タルムード』のエッセンスは、今でも根底に流れているだろう。ユダヤ人から、なぜあれだけの才能が輩出されるのか、その謎の一端がここに垣間見えるような気がする。ユダヤ教では、人が生涯を通じて学び続けることを義務づけている。『タルムード』は、新しい見方や解釈が加えられるための白いページが、最後に必ずつけられた未完の書物でもある。

★人間としての学問
 万人に可能性を与える「科挙」

中国には、儒学の他に、道教や仏教がある。道教には「無」、仏教には「空」という形而上学的な概念があるが、儒学にはそれがない。孔子がそのようなことを考えなかったわけではない。しかし、人智を超えたそのような問いに、全ての人間が向き合ってゆくのは非現実的であると考えた。むしろ、発展途上にある巷の人間が、いかに自己を成長させ、現実を変えてゆけるかに焦点をしぼっていった。それは人為が通用する世界である。

人間が反応ではなく、知性を持って生きる時、生き方が変わってくる。その知性は教育によって得られるという基本姿勢が儒学の考え方だ。孔子は、非常な博識家であったが、そのような知識を教える時にも、人間生活において、それがどう解釈され、生きた形をとっていくのかを問題にした。「論語」には、弟子と孔子との対話が、つぶさに記されている。

孔子の時代には、師と弟子という個人的な関係から教育が行われたが、後に、教育の順序が組織的に考え出され、中国教育史を変えてゆく。「小学」という初等教育のためのテキストを作り、読み書きそろばんという実学を広く子供達に教えるとともに、「科挙」という官吏登用試験制度を設けた。これは、家柄や富に左右されずに、優秀な頭脳を持った人材を社会に活用するシステムだ。社会の階層に、流動性をもたせる結果となった。

★別次元のルール
 不動のアルゴリズムが動かす世界

孔子は政治に徳を求め、それを理想としていたが、その夢は実現されなかった。しかし、2500年もの間、『論語』がしぶとく生き続けてきたということは、彼の「人間が現実の中で生きていくための知恵」という視点が有効だったことを告げている。一方、ユダヤ人は、2000年もの間、国を追われ、迫害されて生きるという過酷な運命を背負ってきた。それでも、ユダヤ人がユダヤ人であり続け、現代、超国家的なレベルでその力を発揮しているのは、政治や社会に依存しない、別次元のルールが彼らにはあるからだ。不安定な世界の中で、明確なベクトルを持っている人間は、揺らがない。

この数千年の間、人類は様々な興亡を繰り広げながら、文明を進化させてきた。現代の社会的なアルゴリズムとして、キリスト教文化、資本主義、民主主義、科学の進歩などが大きな力を発揮しているように見えるが、ユダヤのアルゴリズムは、それらの次元を含有しながら、さらに絶対的な別次元のルールの上で働いているのかもしれない。たとえばジョージ・ソロスが、各国の経済観念を飛び越えて、金融界を魔術師のごとく翻弄したように。

未来において、ユダヤのアルゴリズムはどのような回答を弾き出すのだろうか。それとも、ユダヤ的なシステムを凌駕する、新しいアルゴリズムが地球上に生まれるのだろうか。その兆しを感受するためには、「ユダヤ人とは誰か?」という根本的な疑問に触れておいた方がよさそうである。次回は、ユダヤの歴史をさかのぼる。

《参考文献》

『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』 ラビ・M・トケイヤー著 講談社
『孔子伝』 白川静著 中央公論新社
『儒教とは何か』 加地伸行著 中央公論新社


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