西陣織。京都に伝わる由緒正しき日本の伝統織物として誰もが名を知るが、その歴史を正しく知る人は少ないのではないだろうか。極彩色の美しい織物は、頑なに伝統を守るだけではなく、新しい技術を吸収しながらしなやかに進化を続けている。その織りには千年の歴史と共に、千年の未来が紡がれているのかもしれない。京都の西陣で新たな境地へと挑戦を続ける百二歳と九十九歳の山口伊太郎、山口安次郎兄弟。西陣の縦糸と横糸を織りなすかのようにそれぞれの道を歩んで来られたお二人の織物に対する想いを、前編と後編に分けてお聞きする。前編では、常に新しい技術を見据え、『源氏物語錦織絵巻』を製作することで織物の美術的表現の限界に心血を注いでおられる兄、山口伊太郎さんにお話を伺った。



「西陣織」ならぬ「伊太郎織」

山口伊太郎さん
明治34(1901)年生まれ。102歳。18歳で西陣高級帯地製造・卸売業を創業。西陣織物同業共同組合理事長や西陣織物館理事長などを歴任。 70歳の時、西陣織による『源氏物語』の創作・表現を決意。『源氏物語錦織絵巻』三巻までを完成させた(フランス国立ギメ東洋美術館収蔵)。現在、四巻目を制作中。

フランスのアカデミーフランセーズの委員の一人でもあったご婦人が、東洋の織物に関する研究と収集を行う組織(A.E.D.T.A)を運営されているんですが、私の織物『源氏物語錦織絵巻』の話をフランス文化相、ジャック・トゥボン氏から聞いて、わざわざ日本まで見に来てくださったんです。そして、高く評価して頂き、フランスに寄贈するようにと働きかけてくださいました。西陣は明治の初期にフランスよりジャガード織機の技術を教えて頂いたという経緯があり、その御礼をしたいと思っておりましたので、意気投合しました。しかし、個人が政府へと寄贈をすることは難しく、そのため、国立ギメ東洋美術館に寄贈させて頂きました。この美術館では、生存中の作者の作品の収蔵は今回が初めてだったそうです。

私の織物については、フランスの織物にも、世界の他の織物にもない精緻な表現をしていると評価してくださり、「何と表現すればいいのか?」という話になりました。そこで、「私の創作の織物としか言いようがありませんから…」と説明したところ、「伊太郎織」と呼ばれるようになりまして(笑)。

『源氏物語』を織物で再現した私の『源氏物語錦織絵巻』は、絵の表現にさまざまな趣向を凝らしてあります。例えば、「竹河(二)」の、庭に桜が咲き誇る絵では、桜がほのかに匂い立つように浮かび上がる様を表現するために、様々な工夫を施してあります。日の光の下で美しく輝く日本の桜の美しさを、いかに表現するか、ということに非常に苦心した箇所です。



絵画への挑戦状

織物ですから、絵画と違って、見るだけでなく、手にとってみるとまた、織物ならではの美しさがあるんです。西洋にはタピストリーという、「見る」ことを目的にした織物がありますが、これに用いている「ゴブラン織」では、単純な織組織を用いているので、余り精緻な表現はできません。私は、もっと精緻に、絵画で表現しきれないところを織物で表現していきたい、と考えたんです。それが、ちょうど70歳の時でした。「人生80年、母親の腹の中に居た頃から機(はた)の音を聞き続けた、織物に捧げた一生。その残りの10年で、一つの芸術品を創り上げたい」と考えたわけです。それまでは、やはり用途・機能を重要視して物作りをしてきて、芸術的表現というものは余り考えていなかったので、今度は、培った技術を駆使して、織物としての芸術を確立したかったんです。


【西陣織の歴史】
西陣織の起源は5〜6世紀の古墳時代に遡る。大陸から渡来した秦氏一族が今の京都、太秦近辺に住みつき、養蚕製糸と絹織物の技術を伝えたことに発し、平安、鎌倉時代を経て室町時代には同業者同士で組合を組織するようになる。しかし応仁の乱により戦火を逃れるために職人たちが散り散りになり、戦乱が収束した後に再び、集まった地が「西軍の本陣跡」つまり「西陣」であったことから、そこで作られる織物として「西陣織」と呼ばれるようになった。この頃、大陸から伝わる「高機(たかはた)」と呼ばれる技術を取り入れ、あらかじめ染めた糸(先染)緯糸(よこいと)を用いて紋様を織りなす「紋様織物(もんようおりもの)」の技術が確立され、その後も新たな技術を積極的に取り入れることにより日本における重要な産業へと発展していった。明治以降にはフランスのジャガード織機を導入することで近代化の先鞭をつけ、意匠設計においてはコンピュータグラフィックス技術を導入するなど、常に進歩的技術を取り入れ、現在に至っている。

その時、丁度、現存する『源氏物語絵巻』を見る機会があったのですが、制作当時の面影がないほどに剥落が激しく、その面影は消え失せていました。『源氏物語絵巻』が創られたのは、原作が書かれてから約百年後だったと聞きます。今は書かれてから千年。「百年後」も「千年後」も「後」には違いないんだったら、ひとつ、織物の技術を駆使して新たに『源氏物語錦織絵巻』を創ろうじゃないか、と思い立ちました。その当時は「10年あればできるだろう」と考えていたのですが、それが、やり始めてみると10年で出来るような生易しいものじゃなかった。

まず、紋様織物を作るには「紋紙」という、柄を指示するためのカードが必要なんです。織物にする「正絵」を画家におこさせ、「紋屋」という職人に紋意匠図を製作させます。長年、つきあいのある紋屋にそれを発注したところ、「これをやるには自分の仕事を全て断らなければできない。膨大な仕事量だ」と言われてしまいました。そして結局、1年で紋紙ができあがると算段していたものが、3年掛かってしまったのです。しかも、『源氏物語錦織絵巻』の一巻分を創るのに必要な紋紙は実に百万枚にも及び、それをストックしておくだけでも20坪ほどの倉庫が必要でした。しかも、紙でできているものは湿度に弱い為、保管にあたっては空調設備も完備する必要がありました。要するに『源氏物語錦織絵巻』全四巻に必要な紋紙保管のためだけに空調完備の倉庫を4つ建てなければならないわけです。これは本当に大変なことだと思っていた頃、当時、少しずつ普及しはじめていたコンピュータを使ってみよう、ということになりました。けれど20年近く前の話ですから、まだ、ソフトウエアも大したものはなかったし、精密なものも再現できない。そこで自社で独自にシステムを構築しながら『源氏物語錦織絵巻』の第二巻を創り上げました。このシステムだけに何億という金額を投入しました。しかし、第三巻目を創り始めた頃には、色々なグラフィックスソフトが作られるようになったので、今はそちらも利用しています。



常に進む技術を吸収する

私たちは、絹糸以外に色々な素材を用いるのですが、その代表的なものとして「金箔、銀箔」があります。しかし、「銀」は時間が経過すると酸化してしまう。せっかく綺麗に作ったものが黒くなってしまっては元も子もありません。それで、銀の代用にプラチナを用いることを思いつき、金沢の箔作りの職人に相談したのですが、「そんなものは作ったことがない」と言われました。その時の技術で可能だったのは、鉛で作ったような黒味がかったプラチナ箔のみだったのです。それを使うくらいなら、アルミニウムを使った方がいいだろう、と途中までそう考えていたところ、いざ製作に移行しようとした時に、金沢の職人から連絡があり、白く美しいプラチナ箔が作れるようになったと言われました。私の織物は、こんな形で職人の努力・工夫と技術の進歩に助けられて進んでいったのです。

また、先年完成した三巻目の中では、欄干に掛かった薄い布が透けているさまを表現することに非常に苦心しました。絵画であれば、絵の具をぼかすなどの手法で透けている様子を表現するわけですが、こちらは織物ですから、私は織物ならではの表現をしたかった。そこで、欄干の絵の上に、本当に薄い布を掛けるような技法を開発しました。その研究だけで3年掛かりました。色々な太さや質感の糸を集め、実際に織ってみるという試行錯誤の繰り返しで、ようやく一つの手法を開発するんです。理屈ではわからないんですね。うまく行かなければ設計をやりなおし、時には機(はた)装置の仕組みも変更します。

けれど、絵の具の色を混ぜ合わせて色彩を表現していく絵画と違って、織物では、実際に様々なマテリアルや織り方、糸の種類などを使い、組み合わせることによって深い表現が可能です。特に『源氏物語絵巻』のように、着物姿の人々を表現する場合、織物で表現することにより、紙に絵の具という技法では不可能な質感と立体感の表現ができたのではと思っています。

西陣に生まれたという運命

西陣の織物というのは、一人で作り上げるものではありません。糸を紡ぐ人、図案を作る人、紋紙を作る人、そして機を織る人など、とさまざまな工程に分かれています。こうした多くの職人との長年の関わり合いの上に『源氏物語錦織絵巻』があります。

70歳から数えて30年を超え、三巻を創り上げ、最後の四巻、私の残りの命と技術を賭け、更に新たな表現や技術を試行錯誤で進めている最中です。

そういう目的があると、日々、景色を見る目も全く違ったものになってきます。

今まで漫然と見ていた四季折々の植物や景色の移り変わりを、いかに表現しようかと、常にそんな目で見るようになりました。しかも、それを表現する時には、従来の技法だけを使うのではなく、新しく技術を開発していくことを考えるようになりました。今や、寝ても覚めても美しいものをいかに表現するか、美しいものを見た時に感じた感動をいかに織物に反映させていくかを考えて、日々本当に楽しく過ごすことができます。60歳で定年なんていう世の中はおかしいんじゃないかと思います。私は70歳で奮起して、それから30年、今も新しいものを創り出しているという自負があります。


『源氏物語』との出逢いには、ある意味、運命を感じています。

他の題材では、ここまで織物の技術を追求できなかったのではないかと思います。私の住んでいる場所が「紫野(むらさきの)」というのですが、ここは紫式部のお墓のあるところなんです。そして私の弟が住んでいる場所は、式部の住んだ寺があるところなのです。色んな意味で縁故、歴史の繋がりや因縁があるように感じています。もともとは私の人生の集大成として創り始めたものが、やはり西陣の歴史、ひいては京都の歴史の上に成り立っているように思うのです。

進化こそが存続

私がこの絵巻物の製作に取り組んでいる理由の一つに、西陣の将来があります。西陣織は、フランスのジャガード織機の導入で大きな発展を遂げたという歴史を持っていますが、その、ジャガード織の故郷であるフランスのリヨンでは、今、織物の店はわずか数軒になってしまっているそうです。私は西陣をリヨンにしたくないのです。そのために必要なのは、常に進化することだと思っています。コンピュータの導入、新たな素材や手法の開発、精緻な表現。伝統のデザインや手法は維持しながらも、それに縛られることなく、常に発展して進化していかなければ西陣の発展もないと思っています。私が先鞭をつけることで、後に続く人々が、新しいものに挑戦して、伊太郎の創った織物を超えてやろうという、挑戦意欲を持って欲しいと願ってやみません。

後々、「この表現はどういう技法を使ったのか」を知りたい人のために、わざと織り地の裏は処理をせずに、見えるようにしてあります。心ある人であれば、このことに気がついて、私が技術を隠そうという考えがないことを知るであろうと思っているからです。

織物の美しさを「見る人」に再認識してもらい、新しい美の表現の可能性を知ってもらう、『源氏物語錦織絵巻』という作品を通じてそれが実現できれば、と思います。




【千年の織物 二百歳の夢 展】

山口伊太郎、山口安次郎兄弟二百歳記念作品展。

伊太郎氏作
 源氏物語錦織絵巻三巻
安次郎氏作
 能装束「麻の葉地枝垂桜に蝶文様唐織(草根花木皮染)」
 「夕顔撫子文様唐織(宝生宗家御所蔵品写)」

など兄弟の作品が一堂に展覧される。

■ 場所
大倉集古館
東京都港区虎ノ門2-10-3
(ホテルオークラ本館正面玄関前)
tel. 03-3583-0781
http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/
■ 会期
2004年1月27日(火)まで
■ 開館時間
10:00AM〜4:30PM(月曜休館)


Back to home.