障害だろうが、
高齢だろうが、
誰もが海では自由になれる。





障害者や高齢者にとって日本はバリアにあふれた国だ。
しかし福祉の外から「海の中は、バリアフリー。
海は障害者や高齢者にも優しい」と説き、
障害者や高齢者向けにダイビングスクールを開くダイバーがいる。
「東京ダイバーズ」代表で、自らも障害を持つ椎名勝巳さんだ。
70歳、現役最古参のダイバーでもある椎名さんとその応援団、
そしてハンディキャップダイバーたちの活躍を通してバリアフリーを一緒に考えてみたい。


椎名さん
椎名勝巳さん KATSUMI SHIINA


東京ダイバーズ
www.tokyodivers .co.jp
ダイビングショップ「東京ダイバーズ」代表。1933年、東京都生まれ。早稲田大学中退。新劇の劇団員を経て69年、世界最大のスクーバダイビング教育機関PADI(パディ)インストラクターに認定される。71年、PADI潜水指導協会創立。パディジャパンの代表取締役、DOダイビングスクール校長などを経て、75年「東京ダイバーズ」設立。90年、スキー事故で大腿骨を損傷、障害を抱える身となる。80年代半ばより、ハンディキャップを抱える人や高齢者たちを対象に伊豆・赤沢をホームグラウンドにダイビング指導を始める。わが国現役最古参のダイビングインストラクター。
ウエルカム! ハンディキャップダイバー 
 −ようこそ「車椅子のいらない世界」へ−』

椎名勝巳著
中央法規刊
税別2000円

ハンディキャップダイバー育成のエキスパートである著者による渾身のレポート。「車椅子のいらない世界」をキーワードにして、スキューバダイビングこそ障害者や高齢者に適した究極のバリアフリースポーツであると説く。ハンディキャップダイバーたちとの自然な交流、それぞれのエピソードは大きな勇気を与えてくれる。






「ハンディキャップダイバーは、エネルギーを吸収するために海にやって来る。海は天才なのです」と話す椎名さん。自身が障害を負ったことで、障害者に負担をかけない装備や指導法を工夫したバリアフリーダイビングの先駆者。


秋山旅館に併設された「東京ダイバーズ」赤沢ダイブセンター前に全員集合。障害者、シニアダイバー、「東京ダイバーズ」スタッフ、サポートダイバーが入り交じり、一緒になってダイビングを楽しんでいる。


サポートスタッフの手を借りてドライスーツを着る司代さん。


ドライスーツ着装中の西村さん。


ゆるやかなスロープをつたって車椅子のまま海に入る司代さん。身体が海に浸かった頃、サポートスタッフが車椅子を倒し、海中に身をゆだねる。


左半身マヒの後遺症がある茶畑正子さん(左)と74歳のベテランダイバーの薄井瑛子さん(右)。シニアダイバーの姿は赤沢では見慣れた光景だ。


薄井さんは水中写真が得意。「水中で魚と目線が合う瞬間がある。驚いたり、恍惚としている魚の表情を撮るのがおもしろい」と話す。


海から上がってきた山内さんは60歳のシニアダイバー。


ハンディキャップダイバーの茶畑さん(68歳)。当日で632ダイブ目というベテランダイバー。「赤沢は海の家族。ここに来ると家に帰ってきたようです。しばらく来られないとイライラするくらいです」と話す。


海水に浸ったドライスーツと身体を真水で洗い流してもらうダイビング直後の西村さん。


ダイビングの後、海中で発見した魚の記録をつけるのも楽しみ。当日出会った魚の名前を教えてもらい、会話が弾む司代さん。

福祉の外から見たハンディキャップ

伊豆半島沿岸の静岡県伊東市赤沢。この地で「東京ダイバーズ」が運営する赤沢スクールが開かれる。

スロープが滑走路のように海に注ぎ込んでいる。サポート教育を受けたダイバーに導かれ、障害を持った人が車椅子のままダイレクトに海に入っていく。杖をついた人が静かに海の中へ身を預けていく。ハンディキャップダイバーたちは、海の中でダイビングの用具であるタンクやレギュレーターを装着する。陸の上では重くて背負えない器材も、海には浮力があるので誰でも背負うことができる。そしてバディ(相棒)と一緒に海中の散歩へ出かける。「海はみんなを公平に遊ばせてくれる」と、椎名さんは話す。

「障害のある人と障害のない人とサポートダイバーが、海の中で一緒になってボケーッとする。車椅子や杖から解放される時、みんな『気持ちいい』と言う。海中で見かけた魚や景色など共通の話題がひろがる。海はみんなに平等だ。それを感じ取っているから、ふとした時に『バリアフリー』という言葉が口から自然に出る。精神的なバリアフリーはすぐにはつかめないが、まず身体が素直に反応する」

始まりは人間対人間としての会話

ハンディキャップダイバー / 司代令子さん
司代さんは脳性マヒのため四肢が不自由だ。それでも、電動車椅子で買い物に出かけ、車も自分で運転するという。趣味は旅行という行動派だ。
「かつて障害者用トイレはどこにもありませんでしたから、昔と比較するとインフラは改善されてきたと言えます。それでも、今でも車から降りると、世間はバリアばかり。それが現実です。 一人で行動すると、他人に手伝って欲しい時も手伝って欲しくない時もあります。人間だからどうしても意志が通じないこともありますが、バリアフリーはこんな方向に『変える』というより、まず人としてしゃべってくれることから始まるもの。 相手が障害者だから、老人だから、子供だからということではなく、人間対人間として会話をすることが大切だと思います。
ダイビングを始めてわかったことは、海の中ではダイバーはみんな一緒だということ。水中での動きが遅いか速いかの違いだけです。椎名さんがおっしゃるように、海は本当にバリアフリーでした」

バリアフリーと聞くと、段差をなくすことや車椅子用のトイレを増やすことを思い浮かべるが、椎名さんは海の中からバリアフリーのモデルスポーツを提案し、80年代半ばから今日まで普及活動を続けている。

「行政の福祉は幅が決まっているが、僕がやっているのはそこからこぼれたところにあるからアウトサイダーでしょう。僕は福祉の外側、海の中からハンディキャップダイバーの支援を続けている。いや、一緒に遊んでいると言ったほうが正しいかもしれない。福祉をしなくちゃと考えなくても、結果として楽しければいいと思う。そもそも福祉の中心にバリアフリーを位置づけると重くなりすぎる。だから僕は、まったく違った視線で物を言う」

椎名さんは現在70歳。プロダイバーの草分けで、国内の現役最古参のダイバーだ。自身も右足に障害を持つ椎名さんは、ハンディキャップダイバーをサポートすることでいろんな発見があったと言う。

「ハンディキャップダイバーと一緒に潜るサポートダイバーは、いろんな引き出しを持ち、障害者個々の情報を集めておくことが大切です。障害者とコミュニケーションをはかり、どんな障害なのか、どの程度の動きなのかなど、よく理解しないと務まらない。原則は『こちらから手助けできることが何かを教えて下さい』と、相手に問う態度。サポートダイバーは海の中では極力、余計なことをしないほうがいい。僕は自分が障害を持ってからそれがわかった。障害を持つまでは、どうやら手を出しすぎていたようだ」

椎名さんは現在、サポートダイバー育成のシステム作りに情熱を注いでいる。そんな椎名さんの活動に共感し、ボランティアダイバー、通称「赤沢応援団」が全国から集まってくる。

僕の世界が大きくなる

ハンディキャップダイバー / 西村道之さん
脳性マヒの西村さんは、奈良県から一人で赤沢へ通っている。「障害を持つ僕たちが外に出て行くことが大切」と語るその姿には、挑戦者という言葉がふさわしい。
「奈良県には海がないので、子供の頃から海にあこがれていました。ダイビングは脳性マヒの障害があってもできると聞いたので、最初は見学を兼ねて赤沢へ来ました。
僕らは陸上で身体を動かすと、ストレスがかかるのですが、海の中ではそのストレスは軽くなります。陸上では感じることのできなかった、自由に身体を動かせる楽しさが、海にはあるのです。海には、形や色、生態などが多彩な生物がいて、多くの発見があります。そして、ダイバー仲間と語らったり、情報交換したりできる憩いの場もあります。海に潜ったり、仲間と語らったりすることで、僕の世界が大きくなっていくのです。 障害を持つ僕たちが外に出て行って、世間の人に慣れてもらうことが、バリアフリーの第一歩だと思います。どんな人であっても、自分から外へ出て行くきっかけを作っていけばいいのです。自分の力だけでできなければ、誰かの力を借りてもいい。やる気は、障害の有無に関係ありません。僕は挑戦する人が好きです。僕は障害がありながらダイビングに挑んでいますが、『こういう人もいるんだな』と関心を持ってもらいたいのです」

信頼しあって一緒に遊ぶ

椎名さんの活動を知り、赤沢にはさまざまな障害を抱えた人がダイビングに訪れる。脳性マヒの人、手足を切断した人、脳血管障害で半身マヒになった人、腎臓移植の手術を受けた人など枚挙にいとまがない。また60〜80代の高齢者も多い。

「障害の度合いによってバリアは異なる。相手のことを知れば知るほど、自分との違いがわかってくる。でも、わかったところで同じレベルにはなれない。ギャップはそのまま置いておいて、ひとりの人間としてつきあったほうがいい。障害のある人との見えざる境界線にこちらから食い込んでいくことによって、つきあいやすくなる。そして障害者も心の窓を開いてくれる。心の窓を開いてくれないと、ダイビングのつきあいは始まらない。ダイビングは一緒に潜る相棒を信用して、深い海の底まで一緒に潜るスポーツ。相手は身も心も僕に預けてくれる。僕も相手を信頼して潜る。でも、そういう関係は簡単には生まれない。ハンディキャップダイビングは、サポートする側と障害者、その双方の心のバリアフリーが生まれることで、初めて一緒に遊ぶことができるもの。この遊びは、相互の信頼が重要。たかが遊び。でも、遊びを馬鹿にしたら前進はありません」

魚はとてもチャーミング

ハンディキャップダイバー / 下條治子さん
下條さんは1999年に大病を患い、左半身マヒの後遺症があり、普段は杖を携えて歩行している。海に入る時も杖をついたまま、静かにエントリーしていく。
「障害を負う前まで、私はいろんなことに挑んでいたので、ある日突然身体の自由がきかなくなった時、ショックで泣いてばかりいました。赤沢に来た時に司代さんの病気(脳性マヒ)を知らずに、彼女の前で『こんな身体になって嫌よね』と自分の不憫をこぼしたんです。すると彼女は『私は生まれつきだから、そういうことは思わないし、考えたこともない』と言いました。私は悲劇のヒロインのつもりでしたから、彼女の笑顔とその言葉を聞いてドキッとしました。私はここで初めてバリアに対する考え方の質の違いを知りました。そして障害を持った人と接する機会が増え、勇気をもらいました。 今では気持ちは安定し、海に入ることで精神的に救われています。最近では魚がチャーミングに見えるようになりました。何気ないしぐさが、かわいいのです。娘がたまに『ママ、そろそろダイビングしてくれば』と言ってくれます。海に行って帰ってくると、私がおだやかになっているからだそうです」

椎名さんは机の上の理論ではなく、遊びの中で自然にバリアフリーを見つけた。障害者と一緒に潜っているうちにお互いを理解し、心のバリアは低くなっていったのだろう。

「身体の不自由な人や高齢者がどんどん外に出て行く姿を、若者にも見てもらいたい。そして一緒に遊べる時間と場所を作ることで、社会のバリアフリーが生まれる。ダイビングには深さやルート、回数など明確な目的があるし、一緒に潜る仲間がいる。
僕はもともとダイバーを増やす活動をしていたから、現在もやっていることは同じ。障害があろうが、高齢だろうが、医師のお墨つきさえあれば、誰もが海では自由になれる。そのことを一人でも多くの人に知らせたいのです」

ハンディキャップダイバーは、ダイビングというマリンスポーツを通じてバリアフリーにふれ、海に勇気づけられ、仲間と語らい、また自分の居場所へ帰っていく。その光景がとても自然なスタイルに見える理由は、彼らの根底に人間への尊厳、誠実なまなざしがあるからなのだろう。




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