移住先の国と祖国が戦争をしたら、移民とその家族はどんな立場に置かれるのか。
アメリカにおいて少数民族であるとはどんなことなのか。その少数民族は人種差別などの社会状況を変えていくために、どのように活動してきたのか。
今年84歳になる活動家、コウチヤマ ユリさんの生き様は、こうしたことを体現している。人種・階級・国境を超え、抑圧された人々のために尽くしてきた人物として、若い世代からも尊敬を集めるユリさんを、カリフォルニア州オークランドに訪ねた。

活動家 | コウチヤマ ユリさん

1921年、カリフォルニア州サン・ペドロに、日系2世“メアリー・ユリコ・ナカハラ”として生まれる。日米開戦後は日系人強制収容所へ。その後NYのハーレムに長く住み、アフリカ系アメリカ人の公民権運動、地域活動や政治囚の救援活動に参加した。マルコム X が撃たれた時、彼を看取った一人としても知られている。老後はカリフォルニア州オークランドの貧しい地域の施設で、老人や身障者のケアを続けてきた。車椅子の生活となった現在も、少数民族社会の精神的支柱として講演活動を行なう。ユリさんは吉田ルイ子の『ハーレムの熱い日々』(講談社)や、ドウス昌代の『ブリエアの解放者たち』(文藝春秋)など、日本の書籍にも幾度も登場している。 /td>

1941年 サン・トロペ(カリフォルニア)
父の逮捕と強制収容所生活



この日ユリさんは、元ブラック・パンサー(※1)のジャーナリスト、ムミア・アブ・ジャマル(※2)の死刑執行停止を求める「ムミアに自由を! 連合」のTシャツを着ていた。
※1:ブラックパンサー
1965年に起きたマルコムX暗殺事件の翌年、マルコムXの思想を受け継いで結成された急進的左翼政治結社。
※2:ムミア・アブ・ジャマル
15歳でブラック・パンサーに入党。ジャーナリストとして社会的平等を訴え、警察や政府を辛辣に批判した。1981年、白人警官殺害の容疑で逮捕され死刑宣告を受けたが、その根拠は非常に疑わしい。現在も死刑囚監房に拘禁されているが、監房から評論を発表し続け、本も出版。著名人を含む多くの人が、彼の無実を信じて再審を求める活動を続けている。

1941年12月7日、日米開戦。ユリさんの家族をはじめ、日系アメリカ人の運命は、この日を境に変わった。開戦直後、5000人を超える日系人がFBIに連行されたが、日本の船舶に食物を供給する事業をしていたユリさんの父も、根も葉もないスパイ容疑で逮捕される。病弱だった父は、投獄されてほどなくして病死してしまった。

ジャップを追い出せ―。排日運動が高まる中、日系人の預金は凍結され、大人は仕事を失い、子どもは学校に行けなくなった。翌年春にかけて、アメリカ本土に住む約12万の日本人・日系人のうち、90%が各地の強制収容所に送られた。その3分の2は、ユリさんのようなアメリカ生まれのアメリカ市民である、日系2世だ。だがそんな状況にも関わらず、多くの2世が志願して入隊した。

「今思えば、私たちは戦争が作り上げた誤解や集団ヒステリー、アメリカの人種差別のターゲットとして収容所に送られたのです。でも2世の多くは、自分を日本人というよりアメリカ人と見なしていました。だから国のために奉仕するのは当然と考えたのです」とユリさんは振り返る。

1世たちがコツコツ働いて手に入れた財産や家財道具を二束三文で売り払い、身の回りのものだけを持って到着した収容所は、厩舎やバラック。人々は段ボールで家具を作り、送ってもらった種で花壇を作り、のど自慢大会などを開いて、住環境の向上に努めた。ユリさんは3年間の収容所生活で、「日本人の柔軟さや我慢強さ、協調性を学んだ」という。また、変わらず親切な態度で待っていてくれた、白人の隣人たちも支えだった。

この時、ユリさんは二十歳。収容所で笑いの少なくなった少女たちに、生きる張り合いを持ってもらおうと、日系の孤児や2世の兵士たちに手紙を書く活動を組織する。そして、こう言ってきかせた。「ここでの生活は確かに大変。でも、人生はこれで終わりじゃない。大切なのはこの先、ここで学んだことをどう活かせるかということ。だから、くじけず未来を考えましょう」

1946年 ニューヨーク
家族ぐるみで抗議行動に参加


ユリさんの部屋には、家族や活動家仲間の写真がにぎやかに貼られ、多くの人と友愛を育んできたユリさんのヒストリーが垣間見える。

終戦後の1946年、日系2世のコウチヤマ ビルさんと結婚したユリさんは、ビルさんの出身地であるNYに移り住む。公営団地に住んでウェイトレスや内職をしながら、5人の子の親となった。

「我が家は常に宿の必要な人々に提供する」。これは新婚時代に2人が決めたモットーだ。収容所時代からの知り合い、アジア系復員兵、団地の住民のアフリカ系アメリカ人やプエルトリコ人…。誰に対しても心を開く2人を頼って、様々な人が家を訪れ、泊まるようになった。週末のオープンハウス(自宅開放)には、ドアの外まであらゆる人種があふれる。コウチヤマ家はいつの間にか、人々が知り合い、情報を交換するネットワーキングの場となっていた。

※3:公民権運動

公民権運動とは、アフリカ系アメリカ人が中心となって、人種差別に抗議し憲法に定められる諸権利の保護を求めて展開した運動。64年に差別を禁じる公民権法が制定されたが、代表的指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師は68年に暗殺された。この運動は、後の反戦運動や女性/ゲイ・レズビアン解放運動に多大な影響を与えた。

1960年12月、一家はハーレムに新築された公営団地に引っ越す。当時のハーレムは、50年代より南部で盛んになってきた公民権運動(※3)の話で持ち切りだった。これに刺激されて、住宅の改善を市当局に要求する家賃不払スト、ゴミを回収に来ない清掃局に対する抗議など、草の根運動が起きていた。ユリさんも4歳と2歳の子供を連れて、初めての抗議行動に参加する。小学校前の交差点に信号機の設置を求めて、親たちが座り込みをしたのだ。

家族ぐるみで地域の抗議行動に参加し、アメリカの陰の歴史を学ぶにつれ、ユリさんは社会の不正に目覚めていった。

「子供のころは学校で教えられたとおり、アメリカが世界一素晴らしい国と信じていました。収容所を体験して何かが間違っているとは思ったけれど、その疑問は生活に追われる日々に埋没させていました。政治的思想というのは、人に出会い学んでいく中で、だんだん作り上げられていくものです」

やがてユリさんに、大きな転機が訪れる。42歳の時、マルコムXとの出会いだった。

1964年 ハーレム(ニューヨーク)
マルコムXとの出会い


アメリカの偽善を痛烈に攻撃し、「黒人であることに誇りを持て」と説くマルコムXは、ハーレムの新しいヒーローだった。

メディアが描く悪魔のような人種差別者像とは裏腹に、実際は物静かで礼儀正しい人物だったという。講演会でマルコムと言葉を交わしたユリさんは、人間的な器の大きさと温かさを感じてすっかり魅せられてしまう。

64年6月、広島・長崎世界平和使節団の歓迎会がコウチヤマ家で開かれた。100人以上が詰めかけた4DKの家に、多忙なスケジュールをぬってマルコムが訪ねてきてくれた。この日彼はアジアの植民地化の歴史に言及し、「進歩的なあなた方は、アメリカのベトナム戦争への関与に、声をあげて反対しなければなりません。それは第三世界の全民族に通じる闘いであり、新植民地主義が引き起こす世界中の戦争に反対することなのです」と語ったという。

マルコムが銃弾に倒れたのは、翌年のことだった。現場となった日曜集会にユリさんも参加していて、銃撃された彼を看取る姿が報道写真に残っている。彼の遺志を受け継ごうと、ブラック・パンサーなどのグループは「Power to the People(人民に力を)」をスローガンに、子供たちへの食事供給、医療奉仕、歴史教育などの地域活動を精力的に行なった。

また、マルコムが促したベトナム戦争反対運動は、アジア系アメリカ人に「汎アジア人」という新たな意識をもたらした。「同じアジア人を殺していいのか?」という疑問は、民族のルーツを学ぶ学術的研究や、世界市民としていかに行動すべきかという課題に発展していく。

「マルコムとの出会いは、私の人生を変えました」とユリさんは言う。自分の壁を取り払い、人々の歴史や文化を学び、真実によって世界をひとつにつなげよう―。マルコムの指し示す方法に向かって、ユリさんは力強く歩き始めた。

2005年 オークランド(カリフォルニア)
次世代に伝えること


Book

ユリ The Life and Times of Yuri Kochiyama
―日系二世NYハーレムに生きる
中澤まゆみ|文藝春秋|絶版

「この体の小さなアジア系女性が、なぜアフリカ系やヒスパニック系の運動に関わるのか?」最初は不思議に思う人も、ユリさんの誠実さや情熱にふれると、人種のことは忘れてしまう。すべての抑圧された人々のために尽くす決意のもと、ユリさんはあらゆる活動に携わってきた。自分の住む地域では、ホームレスの救援や留学生に英会話を教えるボランティアを続けた。

77年にはプエルトリコ政治囚を病院に移すための示威行動に参加、自由の女神を占拠して逮捕された。93年には政情の不安定なペルーに赴いて、人権問題を調査する体験もした。

時に過激なそんなユリさんを見守り、ともに歩んできたビルさんは、93年に他界した。また、コウチヤマ家は交通事故と自殺で2人の子供を失い、6人の孫を得た。

夫妻が中心となって達成したことのひとつに、日系人強制収容に対する補償がある。アメリカ政府に対し、単なる金銭的な補償ではなく、自らの過ちを認めて正すことを求めた補償要求運動は、15年以上にわたる努力の末、日の目を見た。90年、8万人の生存者の代表が、第1号として政府から謝罪文と2万ドルの小切手を受け取ったのだ。

「日系人はアメリカに過去の過ちを教えて、その何十倍もの苦難の歴史を味わってきたアメリカ先住民やアフリカ系アメリカ人とともに、この国を変えていかなければならない」。それが、ユリさんがこの運動に取り組んだ理由だった。

後年は歩行器や車椅子を使いながら講演を行ない、98年にはUCLAに客員研究者として招かれ、自伝を執筆するなど、教育活動にも力を入れている。

子供が言葉を覚えるころから、人は平等であること、お互いを助け合うこと、そして戦争では多くの人が死ぬ真実を教えなければならない。そう考えるユリさんに、未来への希望を尋ねるときっぱりこう答えた。

「戦争をしたい市民はいません。したいのは政府です。アメリカの若者は徴兵を拒んでほしいし、日本はいつもアメリカ国に従わないでほしい。アメリカという国の行動は往々にして攻撃的で強欲ですが、一般国民はそうではありません。人々が国を超えて結束して、アメリカ国政府に対抗する運動を高めていけば、世の中はいくらかでも変えられます。そういう人々こそが、私の希望です」





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