「楽して、ぐうたらに生きる」を座右の銘にしている、漫画家の水木しげるさん。
しかしこれまで過ごした83年間には、戦争や貧しさなど、さまざまな困難があった。
人間界では奇人と崇められることもある“妖怪”水木さんが、
会得した幸福のかたちとは何か?


漫画家/水木しげるさん

本名・武良茂。1922年大阪で生まれ、現在の鳥取県境港市で育つ。 太平洋戦争時、ラバウル(現在のパプアニューギニア、ニューブリテン島)でマラリアを発症、療養中に爆撃で左腕を失う。1946年帰国。職を転々とした後、アパート経営に乗り出す。そのかたわらで紙芝居を描きはじめ、後に貸本漫画家に転向。 1961年結婚、翌年に長女が、4年後に次女が生まれる。 1965年発表の『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞受賞。これを機に人気作家となる。 1968年『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメ放送で不動の地位を築く。 2003年、紫綬褒章受賞。現在も現役の漫画家として活躍するとともに、 妖怪冒険家、妖怪収集家としての活動も。 また幸福観察学会(会員数1名)の会長でもある。


げげげ通信
http://www.mizukipro.com/

商店街の鬼太郎のキャラクターたちに導かれるようにして到着した調布のマンション。水木プロダクションの応接室に現われた水木さんは、威風堂々とした妖怪のようでもあり、子供のようでもあった。83年の人生と、半世紀以上にわたる画業生活の重みに接した瞬間だった。

子供の頃から妖怪だった

水木しげるさんの「幸福の七カ条」

  • 第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
  • 第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
  • 第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
  • 第四条 好きの力を信じる。
  • 第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
  • 第六条 怠け者になりなさい。
  • 第七条 目に見えない世界を信じる。
(著書『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』より)

「私は子供の頃、『頭が悪い』ってよく言われた。理由は、自分の言うとおりにしか自分を使わないから(笑)。それは今も同じで、人の言うことはあまり聞かない。水木さんは(※水木さんは自分のことをこう呼ぶ)、べビイ(※水木語で子供のこと)の時から、勝手に自分の哲学を持っとったわけです。だから幸せになれた」

近所に住む、あの世や妖怪の語り部のような存在の、通称“のんのんばあ”の話を聞いたり、絵を描いたり、自然のなかで遊んだり。子供時代は遊びに明け暮れた。のんびりした性格で、心配した両親は、尋常小学校の入学を1年遅らせたほどだった。

「私は3人兄弟でね、兄貴は優等生だった。朝遅く起きると、兄貴は飯を食わずに学校へ行く。私はそれを全部たいらげて行くから、いつも2時間目から登校。学校に遅れて先生に立たされても気にしない。人と違っていても、それほど悪いことをしたとか、大変なことをしたとか、思わなかった。わが道を行くという感じでしたね」

水木哲学と太平洋戦争

妖怪ニュース

妖怪で町おこし

境港市観光案内所・水木しげる記念館
http://sakaiminato.net/ mizuki/index2.html
水木さんの故郷である境港市は、町おこしにさまざまな妖怪観光名所を創出。2003年に完成した「水木しげる記念館」は、人間・水木しげるとその作品の記念館。世界中から集めた妖怪に関するコレクションなど、貴重な品々を公開している。周辺の「水木ロード」には、100体を超える妖怪ブロンズ像が並び、これらは一般の人の参加で増え続けている。
さらに今年度中には、米子駅から境港駅までの16駅にさまざまな妖怪が登場する「鬼太郎列車」が登場予定。妖怪人気で全国から観光客を集め、大きな経済効果をあげている。

水木しげるのゲゲゲの森

「愛知万博」にも水木さんの世界が登場。水木作品や活動のテーマである「自然との共生」を主軸にすえ、世界の妖怪や妖精にまつわる展示や販売などを行なう。
妖怪舎

http://www.youkai.co.jp


大(Oh!)水木しげる展


親交の深い荒俣宏氏と京極夏彦氏のプロデュースによる、水木さんの「人と作品」の魅力を解き明かす展覧会。全国を巡回し、このあとは岐阜市歴史博物館(〜7月24日)、高知県立美術館(7月31日〜9月25日)を残すばかり。
図録:朝日新聞社刊 2,000円(税込) 問い合わせ:http: //shop.asahi.com/

『水木しげるの憑物百怪』小学館文庫


上巻770円・下巻740円(ともに税込)

『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』_


日本経済新聞社刊
1,260円(税込)

尋常小学校を卒業してからは、社会に居場所が見つけられず、就職や入学を重ねた水木さん。座右の銘は「楽して、ぐうたらに生きる」。その半生における最大の敵は戦争と貧困だった。

二十歳の時に赤紙がきた。ラッパ吹きの任に就くが、うまく吹けないので配置転換を申し出た。これがきっかけとなり、南方のラバウル(現在のパプアニューギニア、ニューブリテン島)に派兵された。そこは“決死”“玉砕”といった言葉が飛びかう最前線で、「生きて帰りづらい場所」。軍隊では水木さんの哲学は通用せず、“ビンタの王様”とあだ名されるほど、毎日殴られた。部隊が歩く時はいつも先頭で、弾除けにされた。

「ある日、見張りをしていた時、敵が後ろから攻めてきて部隊が全滅したことがありました。私ひとりだけ生き残った。夜の間に敵は我々を包囲していて、私が皆を起こしに行くのを待っていた。だけど私は、オウムが面白いので望遠鏡で見ていたんです。オウムは時間がきても面白さをやめないじゃないですか。そのうちに日が昇って、しびれをきらした敵が撃ってきたんです」

命からがらジャングルを5日間さまよい、運良く日本海軍の小隊がいる小屋にたどり着いた。陸軍に戻ると、兵隊たちは水木さんの奇跡の生還を喜んだ。しかし上官は言った。「なぜ、死なずに逃げたのか」。ラバウルでは大勢が死んだ。勇敢に戦って死ぬ人も多かったが、上官の無謀な命令や、死が美化されていたので、“卑怯”“生き恥”“面子”などの言葉のために死んだ人も多かった。

水木さんはその後、マラリアを患い、敵の急襲で左手を失った。

「左手がなくなってからは、ある程度規律もゆるくなった。私は純朴で温厚な原住民たちと妙に気があって、つきあっていました。ひとりだけフラフラと集落を訪ね、配給の煙草と果物なんかを交換したりね」

もちろん軍律違反である。集落に姿を見せない水木さんの様子を気遣って部隊にやってきた原住民が、マラリアの再発で弱って動けない水木さんに見舞いの果物を届け続けたこともあった。

水木さんは彼らと「畑も、家も、嫁も世話するから、現地除隊しろ」と言われるほどの友情を結んだ。

世の中から正しいと教えられることは時代によって変わる。「案外、間違いも多いです」と水木さんは言う。「私はあまり勉強しない子供だったから、よかったんです。普通の人は学校へ行くと一生懸命勉強する。そうして知らないうちに自分をなくすのかな。私は人の言うことは聞かず、自分を育てたり、活かしていくことが第一だと思って、今日まできました」

妖怪、人間界で生き抜く

復員後は、闇市の買出し、染物工場の下絵職人、魚屋、輪タク業、傷痍軍人の圧力団体による募金活動、アパート経営(数年で売却)など、職を転々。細々経営していた「水木荘」の住人の紹介で、紙芝居作家となった。29歳だった。

「絵描きになる夢があったが、そのためには当時の金で1千万円はないと駄目と言われた。油絵では食えない。だから、やりたいことに近いことをやるしかないわけです」

その紙芝居は、やがてテレビに駆逐される。ぎりぎりの生活もままならない経済状態だった。やめようと思ったことはなかったのか。

「不安はしょっちゅうだったけど、そんなこと気にしてちゃいかんです。やめるって言ったってアンタ、他にやることがない。将来、食えなくなったらどうしようなんて、いっさい考えない。ただ、ばく進あるのみだから」

凝り性ゆえの遅筆で、右から左へ、描き飛ばしていくことはできない。あくまでも自分の面白さを追及した。

やがて紙芝居から貸本漫画に移り、160冊の作品を描いたが、やはり労多くして功少ない世界だった。  鬼太郎は紙芝居の時代に『空手鬼太郎』として登場し、次第に超能力を身につけていった。その後貸本漫画へ移行する時に“鬼太郎は人間に滅ぼされた幽霊族の生き残りで、目玉おやじが子孫を見守る”という設定が考え出された。水木さんは自ら開拓した「グロ悲劇物」という新ジャンルに、“のんのんばあ”から聞いた伝説や、江戸時代の伝承、民族学や映画などさまざまな要素を詰め込み、「妖怪」として世に広めていった。

ちなみに今では一般的なプロダクション制を最初に導入したのも水木さんだ。

「私は好きなこと、やりたいことをすべて漫画に帰結させるんです。工夫して、何でも自分の好む方向へ持っていくんです」

人のことを考えた“面白い”
なんて存在しない

水木さんが作品を描く時、読者のことはあまり気にしないと言う。

「自分が面白くてたまらず描いたものが読者に受けるし、また、描いている人自身も面白い。“面白い”というのは、自分自身の問題でしょう。人のことを考えた“面白い”だなんて、そんな“面白い”は存在しない。人のことを考えてはいけないんです。面白ければついて来いという感じで、ばく進! ばく進! ばく進! です。そうして1回認められれば、あとは世間のほうから勝手にやってきます」

こうして43歳の時、『別冊少年マガジン』(講談社)に掲載された『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞。これを機に人気漫画家の仲間入りをした。その後は「人生の収穫期である」として、仕事に明け暮れた。

現在は「楽をして、ぐうたらに生きる」を旨とする水木さんだが、「若いときは怠けてはいけない」と言う。「好きなことをしているのですから」。

みんな頭も身体も
使わなさすぎです

「好きの力を信じなさい」と言う水木さんが、現代の若者にアドバイスをくれた。

「好きなことで生きていくのは、大変な努力がいりますよ。ボヤッとして、まじないみたいなものを信じているような気持ちじゃ駄目です。実際に世の中へ出て、金儲けないかんから。でも無理して嫌いなことをする必要はないと思いますよ。そのかわり頭も身体も十分使って、うまくいくように自分を持っていけばよろしい。私から言わせると、誰でも好きなことで飯は食えるんです。みんな頭も身体も使わなさすぎです。いくらでも努力と工夫の余地はある。世の中、馬鹿で怠け者が多すぎます。それなのに欲望だけが肥大して努力せずに欲しいものを取ろうとするから、無理がいくんです。見通しが甘い。まぁ、私は軍隊でえらいめに遭わされたから、不満も何もなくなってしまったんですけどね(笑)」

幸せの階段


鬼太郎の人形と一緒にくつろぐ水木さん。

引き揚げから25年後の1971年、水木さんは原住民たちとの約束を守って、再びラバウルの地を訪ねた。戦友たちの墓標を建て、現地の人々と再会した。

人気漫画家として眠ることもままならない過密スケジュールをこなしていた水木さんは、ゆったりと暮らす原住民の姿を見て、かつての「水木さんのペース」を取り戻そうと決心。思い切って仕事を減らした。そうして仕事に追われるのではなく、自分のやりたいことを追いかけられるようになったと言う。

その後、水木さんは漫画のかたわら、妖怪を探して世界各地へ。10回以上訪れたラバウルをはじめ、80回以上にもなる愉快な海外旅行をしてきた。そして現在では、妖怪収集家、妖怪冒険家としての顔も持つ。

その一方『ゲゲゲの鬼太郎』は、4回もアニメ化され、国民的人気キャラクターとなった。現在ではゲームも発売。誕生から半世紀以上経った今でも、新しいファンを開拓している。

2003年には、故郷、境港市の町おこしの一環として、「水木しげる記念館」が完成。多くの観光客の目を楽しませ、予想を上回る経済効果を上げている。

80の齢を過ぎた今、水木さんは半生を振り返り、こう語る。

「幸せっていうのは、好きなことをして、楽して暮らせること。私は好きな漫画を描いて、ずっと幸せだった。そりゃ、はじめは収入が少ないから大変だったけど。一生かけて幸せの階段をだんだんと上がっていったんです」

妥協を許さぬ妖怪レベルの“好き”のパワーで奮闘し、半世紀以上の画業人生を「食いきった」水木さん。勲章をもらったことより何より、それが一番誇れることだと言う。






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