![]() クィーンズ美術館 www.queensmuseum.org |
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岩崎仁美(いわさき・ひとみ)さんクィーンズ美術館アソシエート・キューレーター。京都精華大学卒業後、関西西武西友で文化事業に従事。その後、渡米し、ニューヨーク大学大学院で美術館学・西洋美術史、ニューヨーク市立大学大学院で西洋美術史を学ぶ。MOMA、ニュー・ミュージアムなどでの研修を経て、1996年よりクィーンズ美術館勤務。昨年、キューレーターとして「クィーンズ・インターナショナル2004」を手掛けた。若手作家の発掘・紹介に限らず、幅広いテーマの展覧会を展開する。 |
168もの言語が飛び交うクィーンズ地区。日本で流行の「国際化」も、ここでは空気のようなもの。そんな多様な文化から生まれたアートに焦点を当て、マルチカルチャリズムを良くも悪くもあるがままに紹介しているのが、地元のクィーンズ美術館だ。
岩崎仁美さんは、その最先端で美術館や博物館などで運営の中心となるキューレーター(学芸担当職員)を務めていると聞いていたので、気難しく、かしこまった人物かと思っていたら、なんとも気さくで、明るい人であった。
あらゆる人種が住み、文化的に混沌としたクィーンズ。そこで、多様な文化を理解していくには、杓子定規に物ごとを考えない柔軟な思考力と、何事も受け入れる度胸が必要なのであろう。複雑な問題もおおらかな笑顔で対処する岩崎さんの人柄は、人種・文化を超えて、接する人を魅了する。
日本で生まれ育ち、大学卒業後に渡米。岩崎さんのように、日本人がアメリカの美術館のキューレーターになるケースは、あまり例がない。そもそも美術展示会は、お金持ちが個人コレクションを公開することから始まった。キューレーターは美術史をたしなむ良家の子女がボランティア感覚で携わってきた仕事だ。今でもそういった伝統が温存されている。実際に彼女がキューレーターを始める少し前までは、白人の特権階級の職業であった。岩崎さんはそんな中に飛び込んでいった。
「最初はキューレーターという言葉さえ知らなかったんですよ」と言う岩崎さん。転機となったのはロスに住む友人を訪ねた際に、その友人が通う大学の講義に出席したことだ。明確な目的に向かって、勉強したいから勉強する学生の態度、哲学に新鮮な感銘を受けた。しかも、日本では特別な認識しかなかったマスター(学士号)という学位が身近に取得できるのも驚きだった。「キューレーターになりたい」。はっきりとした目的を持って、翌年渡米した。
大学院では博物館史を専攻し、多くのインターンを経験した。卒業後も美術雑誌のエディター、ギャラリーでのアルバイトや、作家のアシスタントなど意欲的にこなした。その後、美術史の基礎固めのために入った大学院では、多くの現場での経験が評価され、教授が何か思い出せない時は、「ヒトミ、○○展示はいつのことだったっけ?」といった質問に「それはですねぇ」と答える存在になっていた。「一回りも年齢が下の、他の生徒の後ろで偉そうにふんぞり返っている嫌な生徒だったんでしょうねぇ」と、岩崎さんは当時の自分を振り返り、愉快そうに笑う。
卒業後、新聞でクィーンズ美術館の採用広告を見て応募。どうせ無理だろうと切実感なしに応募したものの、自分でも驚くうちに、採用が決定してしまった。
![]() 岩崎さんの背景に見えるのは、1964年に行われた「世界展」の際につくられた地球儀の彫刻。今ではクィーンズの人種・文化の多様性を示す象徴となっている。映画『メイ・イン・ブラック』など数々の映画にも登場している。 |
採用決定は岩崎さんの実力と努力の結果だが、その背後で時代の動向も影響した。
90年代半ば当時は、80年代のマルチカルチャリズムがひと段落し、欧米(白人男性)中心ではない作家の紹介が認められてきたところであった。しかし、美術館や博物館を動かしていく側にそれがどれだけ反映されているのかというと別問題であった。
「それを先取りしようとする意図がこのクィーンズ美術館、もしくは、私の採用に踏み切った館長にあったと思います。特にクィーンズという地域の特異性も影響した、当時の戦略ではなかったか」と岩崎さんは採用の背景を分析する。同館ではアジア系アメリカ人の採用も過去にあった。英語力などでは当然太刀打ちできない。しかし、外見がアジア人でも、またどんな葛藤や困難の中で育ったとしても、アメリカ人には間違いない。「外から来て、アクセントの違いもあって、日本人でございますとなると、エキゾチックでおもしろくなるんです」
岩崎さんが選んだ「これから注目されるクィーンズの若手アーティスト」(1/3)
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クィーンズ美術館は、スタッフ35人。決して大きいとはいえない。マンハッタンにあるMOMAやメトロポリタンなどの大型美術館とは、展示の規模や予算などの面でもとうてい太刀打ちできない。そこで、クィーンズ美術館は地元クィーンズの多文化・多人種という特色を反映した多様性のある展示作りで、美術館の特色を打ち出した。
「80年代までは、欧米以外から持ってくる展覧会というと、20世紀展などといった歴史的な主題に限られていました。そこで、あえて近代美術に焦点を当て、展開し始めたのが80年代のクィーンズ美術館です。90年代は、現代美術の作家たちのプロジェクトをベースにした展覧会が中心となり、2000年に入ってからは、そういう作家を外から探してくるのではなく、地元クィーンズに注目するようになったのです」
昨年は「クィーンズ・インターナショナル2004」と題した展覧会を行なった。「流動状態にあるコミュニティ」を選択基準に、多様性を作品に反映したクィーンズの新鋭作家を紹介した。オーガスチン・チャンによる、一見地下鉄の地図に似た展覧会ポスター もよく見ると、57人の参加アーティストの出身地がクィーンズを中心とした世界地図となって表わされており、まさにグローバル・ヴィレッジを反映している。
他の美術館でもマルチカルチャリズムを展覧会のテーマにすることは定番だ。世界の隅々からエキゾチックな作家が現われる。流行だという理由で、マルチカルチャリズムを戦略的に主題化して作品を作る作家もいる。
「しかし、うちには地盤があります。ここに住んでいる人たちは、本当のマルチカルチャリズムを日常として経験しています」
様々な国から来た人々が日常的に隣同士無視して暮らす。その空気を呼吸し、生きている。その正直なところを伝えたい。そんな思いが岩崎さんにはある。
「コスモポリタニズムに謳われるようなハーモニーなどありません。良くも悪くも、知らない顔して住んでいる文化の共存状態も日常なのです」
これは積極的な拒絶ではなく、どんな生き方、文化であれ、暗黙に了解しあった「無視」の中での共存である。
岩崎さんが選んだ「これから注目されるクィーンズの若手アーティスト」(2/3)
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オハイオ州の現代美術館から、チーフ・キューレーターとしてヘッドハンティングされたことがある。将来の展覧会の計画書を提出し、それが評価されたのだ。日本人としてではなく、ニューヨークから来るキューレーターとして認められた。それが嬉しかった。
結局、妊娠という別の吉報のため断念したが、日本人でありながら、キューレーターを担う自分の特異性を再認識した。同じ外見でも他のアジア系キューレーターとは違う。移民で来た人には自分の国の美術をいかに浸透させるかという思いが強い。自分にはそういう意味での啓蒙思想や愛国心はない。
「ニュートラル(中立的)な存在ではないかと思います。アメリカびいきでも、ヨーロッパびいきでもない。何も執着していない、中途半端にぶら下がっている状態を優位として捉え、それを武器・魅力とするキューレーターの存在も可能だと思います」
日本人でよかったと岩崎さんはよく思う。「日本人は旺盛に違った文化を取り入れてきました。実に、懐が深い。違ったものに対して、鷹揚に反応できます」。ニュートラルでいられることのひとつの基盤であるのかもしれない。
岩崎さんが選んだ「これから注目されるクィーンズの若手アーティスト」(3/3)
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9・11の朝、美術館の屋上から黒い煙に巻かれたツイン・タワーを見ながら、アートと現実のギャップに愕然とした。自分が日常関わる美術の仕事は、実際の生活と関係あるのだろうか。美術館が世界からなくなっても、何の影響もないのではなかろうか。否、世界が複雑化しているからこそ美術は必要なのだ、と岩崎さんは再認識した。
「今の社会は合理性に欠ける抽象的なもの、観念的なものが排除されています。そのデータ化できない、言葉では表わせない感情や考え方、漠然とした思いというものを何らかの形で伝達してくれるものが美術です。その効果は、あまりにももどかしく、気が遠くなるほど曖昧なのですが、それによって、人間に与えられる恩恵というのは何物にもかえることはできません」
キューレーターの仕事は、その機会を最大限に提供することだ。
「展覧会は状況作りです。作家の選択や作品の並べ方によって、見る人が制限のないオープンな体験をできるような状況を作りあげることが、私にできる精一杯のことです」
美術館では何でもやる。トンカチやカナヅチを使って、作品展示もする。掃除もする。作品の検証や出し入れもする。
「私の性格にもってこいの仕事。もちろん、辛いこともたくさんあります。でも、作家のアトリエを訪問し、おもしろい作品に出会い、将来の展覧会を思い描きながら、家に帰る時に、やっぱりこれはやめられないなと思います。これからも視覚美術の根本を追求した展覧会を目指したい」
岩崎さんは自然体のまま、真のグローバル・ヴィレッジを呼吸しながら、未来をしっかりと見つめている。