2002年9月から2003年5月にかけて、
厳冬のシベリア大陸を自転車で単独横断した安東浩正さん。
2004年12月、彼は再び極限の地へ向かった。
今度は冬になると地図が書き換えられる道なき道を走り、
極東シベリアを自転車で縦断する旅だ。
果たして荒野のサイクリストは、何を求めて駆けるのか?
【プロフィール】![]() 1970年、広島県福山市生まれ。高校時代に冒険家・植村直己の映画を見てあこがれ、鳥取大学に入学後、登山を始める。卒業後の94年から中国・雲南大学に留学。冬季の東チベットを「カトマンズ〜ラサ〜昆明(中国雲南省)」のルートで自転車横断。翌冬「カシュガル〜カイラス〜カトマンズ」のルートで西チベットを横断。 5年間の商社勤務後、2002年9月から2003年5月にかけて、単独で極寒のシベリア大陸1万4927キロ横断に成功。この冒険が評価され、「2003年 植村直己冒険賞」受賞。日本国際自転車交流協会JACC評議員。 |
20代半ばにチベットの荒野を自転車で横断したことから、いつの間にか“荒野のサイクリスト”と呼ばれるようになった安東浩正さん。
2002年9月、ロシア北西端のムルマンスクを出発、オホーツク海に面したマガダンを目指した。相棒は、極寒地仕様の改造マウンティンバイクだけ。
途中、旅における最低気温氷点下42度を体験。2003年1月中旬、凍結したバイカル湖を縦断。2003年5月、マガダンに到着し、冒険を終了した。走行距離1万4927キロ、日数248日間。旅費は約50万円だった。
安東さんは2年前の春を振り返る。
「ゴールであるマガダンに着いた時、すでに春になっていた。海に達した時点でシベリア横断は成し遂げたが、東には深いタイガの森が続いていた。もしもっと冬が長ければ、さらに東へと挑戦したかった。今は無理でもいつかきっと……。夢は残りました」
今回の旅は、終点から始まっていた。
2004年12月に再びシベリアへ向かった。今回はフェリーでサハリン(樺太)に行き、凍結した間宮海峡を自転車で大陸に渡り、オホーツク海沿いに北上。世界で最も寒くなるオイミヤコンを経て内陸地を横断し、極東シベリア最東端のベーリング海峡を目指す縦断の旅である。
「冬期チベット高原単独自転車横断」に挑んだ際の安東さん。ヒマラヤの麓、チベット高原にて。冬になると、すべてが雪と氷に閉ざされる。「凍りついた間宮海峡を渡った人はたくさんいます。サハリンから大陸まで、狭いところで幅が8キロ。潮の流れが強いので、すべてが凍っているわけではありません。海峡の凍結していない部分を流氷が大きな音を立てて流れていく。その迫力はなかなかのものでした」
シベリアでは冬の間だけ、凍結した道や川や湖の上などにトラックが走る“冬道”が現われる。大陸に上陸した安東さんは、地図に載らないそんな道をさぐりながら前進した。
「北極海に近くなると、それまでのタイガの深い森から、木一本ないツンドラに入ります。雪原の冬道はますます険しく、自転車を担がなければならないこともあります。ブリザードが吹き始めると、トラックが走った冬道が消え去ってしまいます。ルートがわからない時は、雪面を歩いて固くなっているところを探します。そこが少し前までトレースがあった所だから。スキーを自転車にくくりつけて運んでいたので、いざとなれば自転車を捨てて歩いて雪原を脱出する自信はありました」
旅先での食料は、現地調達を基本としている。これが安東流だ。
「自転車で走っていると、冬道を行き交うドライバーはほとんど停車し、『食い物はあるのか?』と聞いてきます。『食べ物を分けてください』と自分からお願いしたことはないのですが、向こうから、これ持っていけ、と食料をたくさんくれるのです。どんなものでも出されたものは食べます。
現地の人と仲良くなれないと、食料を手に入れることができません。お金で物が買えるのは数百キロごとにある大きな村だけ。途中の集落ではそこに住んでいる人が頼りなのです」
![]() 世界で最も透明度が低い湖水で知られるバイカル湖も冬はすべて凍結する。 ![]() シベリアのタイガの深い森の彼方に沈んでゆく夕日。 ![]() 安東さんが自転車で走破したルートの地図 (クリックで拡大します。) ![]() シベリアの永久凍土ツンドラ地帯に暮らす家族。安東さんは「自然が厳しくなるほどに人々との出会いは温かくなる」と話す。 ![]() 広大なツンドラ地帯でトナカイの遊牧を営む「トナカイ遊牧民」。「彼らと生活を共にすると、エコロジーの本質が見えてくる」と安東さん。 |
極東シベリアには、日本人が思い描く村すらない。遊牧民や漁師などは家族単位で生活しているケースが多い。
凍結したコリマ川(サハ共和国)を走っていると、氷に穴を空けて針金を曲げただけのような針をたらして魚を釣っている漁師が声をかけてきた。
「そこで獲れるのが1メートル以上の巨大ナマズ。肉そのものもうまいが、漁師が『これがうまいんだ』と言って出してくれたのがナマズの生の肝臓。ちょっと躊躇したけど、食べたらうまかった。遊牧民からはトナカイの肉をよくもらいました。外は氷点下で天然の冷蔵庫。腐ることもないので足一本もらうと当分食料には困らない。
袋に入った肉塊をもらい、テントで開けてみると、トナカイの心臓まるごと一個だったなんてこともあった。これぞハートのこもったプレゼント(笑)」
シベリアの少数民族に出会うことは、旅の目的のひとつでもあった。
「アジア系少数民族のヤクート、エビンキ、チュクチ族などは、日本人にそっくりの顔をしています。前回の旅でも立ち寄った寒極のオイミヤコン村を再訪すると、『あの日本人が帰ってきた』って大歓迎。なにしろ冬は零下50度以下が当たり前の世界。自転車で訪れる者などほかにいませんから。
他の村々でもよく学校を訪問しました。子どもたちは日本のことは知っているのですが、日本人を実際に見るのは初めて。彼らは僕を見て、日本人とはどんな人種なのか判断するので責任重大。学校でお話会を開いて日本の話などすると、目を輝かして聞きいり、その後はサイン攻めです。草の根レベルの“国際交流”です」
自転車にこだわるのは、それなりの理由がある。
「自転車は自分自身の力で進むことができる。しかもどんな旅の手段より人に出会える機会が多い。がんばっている人を応援したいという気持ちは、どの国のどんな民族でも共通するようです。今回おもしろかったことのひとつに、トナカイ遊牧民との出会いがありますが、最初から彼らに出会おうと計画し、民族の特徴を調べようとするのはジャーナリズムや学術的な調査。そういう人たちはヘリコプターで現地まで飛びます。それは僕がめざす冒険ではありません」
人は安東さんのことを“冒険家”と呼ぶ。しかし、本人はその言葉に軽い抵抗感を覚えるという。
「冒険家=危険、と思われていますが、危険を冒すことが目的ではありません。自然を相手に、自分の限界を少しでも超えることは、一面から見れば危険を冒すことでもあるわけですが、そのリスクをできるだけ減らして挑戦することにロマンがある。だから危険を冒すことが目的ではないのです」
リスクを減らすために、安東さんは特別な装備を用意し、それらを使った実験を試みていた。たとえば寒冷地では汗を吸い取った寝袋はどんどん凍ってゆく。凍結を防ぐ寝袋は市販されていない。そこで自ら開発に携わり、特殊な技法を用いた超寒冷地仕様の寝袋を製作した。自転車もテントも備品ひとつに至るまでアイデアの集大成である。
「極東シベリア縦断は、超寒冷地での野外滞在が付帯条件でした。装備がなければ挑戦する資格すらないでしょう。昼間は平気ですが、夜はテント暮らしなので気温が低いと恐ろしい。以前の装備だと無理でしょうが、今回は超寒冷地に耐えられる装備を用意したから、マイナス60度くらいどんと来いと思っていました」
最悪の事態をも想定した万全の準備に加え、自身に宿る能力の開発や異文化に対する考え方も重要だ。
「大切なのは、自分の限界を把握して少しずつステップアップさせること。そして適応力。外国に行っても現地食を拒んだり、その国の言葉を話そうとしない人がいたりします。でもその地域の環境に自分の資質を適応させていくことは、発見や楽しみに満ちています。どんなものでも食べ、どこでも眠ることができる。それができないと厳しい荒野に挑む旅を続けることは難しいでしょう」
安東さんが自転車でシベリアを横断し、縦断しようとした理由。その氷山の一角が少し見えかけた。
「僕がわざわざ人力にこだわるのは、自分自身の可能性に挑戦したいから。たとえばマイナス50度に自転車と自分の体が耐えられるかわからなかったけれど、今ではそこでの行動に自信がある。自分の限界を少し超えたところに新しい世界が広がり、それを見つけた時に自分が大きくなったことを実感できる。
限界の向こうは未知なだけに、何が見つかるかは挑戦しないとわからない。それは僕にしかわからない答えを探しているようなものです」
すべての行動に意味や理由を見出すには無理がある。ましてや冒険家に冒険の意味を問うのは愚問だろう。
「そこで何を見て何を感じたのか。あるいはその行動がいったい何であったのか。それらをどう表現するかが、これからの僕の冒険の課題です」
安東さんがいま駆けているのは、自身の内側に広がる「未知なる荒野」なのかもしれない。
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