「書はアートたりえるか?」という命題を背負って、多方面で活動する書家の柿沼康二さんは、パフォーマンスやテレビ出演などによって、独自性にあふれる書家のモデル化に挑んできた。そして今秋には活動の拠点をアメリカに移すという。「書は真剣勝負。筆は刀。書に生き様が投影される」と語る気鋭のアーティストに迫った。
書家
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柿沼康二公式ホームページ http://www.kakinumakoji.com/ |
愛知万博「KARATE EXPO」オープニングパフォーマンス |
「このまま、何処へ行こうと言うのだろう」
書家・柿沼康二さんの公式ホームページの扉に表われる文字だ。
自問自答する書家は、様々な領域へ活動の幅を広げてきた。書のワークショップ、海外の空手大会でのエキシビション、音楽とのコラボレーション、ニューヨークやシカゴでの海外個展、テレビやラジオ番組への出演など、独自の活動を通じてオリジナリティを発揮している。
2005年6月に大阪府立体育館で開催された「KARATE WORLD CUP 2005」エキシビション 「アース・セレブレーション2005」で太鼓を中心とした音楽グループ鼓童とコラボレーション |
「サッカーや野球の世界には中田英寿やイチローなど世界標準の日本人選手がいますが、書道界にはそういったモデルはいません。僕が思い描く芸術家としての書家のモデルは、書道の先生ではないんです。値段をつけた作品、美術品を扱うのが芸術家だと思うんです。そして個展を開催し、作品を販売していく。僕がパフォーマンスを展開するのもテレビ番組に出演するのも書家のひとつのモデル化なんです」と、柿沼さんは口を開く。
「ほとんどの書家は書道教室の先生で、弟子に教える指導料で生計を立てています。僕も書家になるということは、書道教室の先生になるというイメージを持っていました。また、これまではそういうコースしかありえませんでした。教室を開かずに、作品の販売やパフォーマンス、個展などで収入を得ているのは、日本では僕だけでしょう」
大学卒業後、故郷の高校の書道講師をのべ5年間勤めたのち、職を辞した。
「当時は書を教える先生だったわけですが、たとえば永ちゃん(矢沢永吉)は歌を教えたりしません。アーティストだから。では、どうして書の世界では筆一本、作品ひとつで食っている人がいないんだろうと思いました。考えぬいた末に学校の先生を辞めたことは、アーティストとして生きていこうと決意する良いきっかけでした」
歯に衣着せぬ物言い。金色に染めた髪。反骨のロックの匂いがする佇まい。「書道界の異端児」の顔が見え隠れするが、柿沼さんは若年では受賞できない数々の由緒ある書道のコンクールに記録的な若さで入賞している。
「おまえはだれだ」70×135cm Are You For Real? 〜 Who The Hell Are You? 〜 2002年 独立会員書展 (東京セントラル美術館) |
書道家の父、柿沼翠流に稽古を受けたのが、書を始めるきっかけだ。
5歳から筆を握り、16歳で手島右卿氏に師事した。
「父は『普通のことをやっていたら、人と同じことしかできない』といったことをよく口にしました。それは個性を伸ばしてくれる教育だったと思います。父は自らの背中で生き方を見せてくれました」
柿沼さんが小学校6年の頃、父は日本一の書家を目指し、悔いのない人生を送りたいと決意して教職を辞めた。そういう環境で育ったせいか、納得できないことには徹底的に反発した。
学生時代は相当荒れていたようだ。
「ロックにのめり込み、バンドを組んで『これが人生だ、Baby!』なんて叫びながら、でもこれじゃいけないぞとも思っていました」
そんな柿沼少年が特に興味を持ったのは書写や習字ではなく、「臨書」という古筆(書の古典)の模倣作業、空海や王義之という歴史上の能筆家の模写だった。武道や芸事でいえば「型」を身体にしみ込ませる修練である。
「型は大切。型から入らないと、応用に結びつかないし、全体も理解できないんです」
師匠の手島右卿氏は、『書家の醍醐味は臨書にある』と言い残しているという。
「臨書とは、書き写すだけでなく、能筆家の心理を読み取ること。周辺の文化を調べながら時代背景を知り、いいなと感じた書を何度も何度も模写し、手癖をまね、その書き手に成り切るくらいのトレーニングをする。どうしてそういう書きぶりが生まれたのかを学ぶんです」
柿沼さんは、現在も臨書に挑み続けている。
「神がかり的な、今まで見たことのないスタイルの字や作品を求めるならば、日々何時間も臨書を続け、能筆家がかもし出している奥義、形にとどまらず運動感までもつかみとったという境地までたどりつかなければいけません。創作は試合のようなもの。練習を積んでいなければ勝てません」
柿沼さんは、書を勝負にたとえる。「筆は侍の刀に匹敵する」とも。“サムライ書家”と呼ばれる由縁がここにある。
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1997年、単身ニューヨークへ渡った。自称「武者修行」である。
「40〜50歳で受賞できればいいと思っていた賞を20代で受賞したのは、描いていた予定より早すぎました。そこで自問自答しました。『このままいれば書道村の一番にはなれるかもしれないが、それでいいのか?』と」
自身の存在を知る者がいない海外で活動することには意味があった。
「自分の作品がアートなのか否か、自分はアーティストたりえるのかということを確認したかった。ここで認められたらアーティストとして世界に羽ばたける切符をもらえるかもしれない。その切符を持ちたい、と」
個展を通じてアートとして受け入れられる感触はつかんだ。
「それでも一回性=制作が簡単と受け取られてしまう傾向が強かったんです。絵画は時間がかかるが、書は一瞬だ、と。しかし書は自分の生きてきた、鍛練してきた時間分の制作時間がかかっていると思うんです。だからこそ、値段をつけることが難しく、売り方を考えないと販売に結びつかないことがわかりました。これが大きな課題になりました」
書に臨む前にランニングをして、手足がしびれるまで肉体を追い込むのは、神経を研ぎ澄まし、時が満ちるのを手繰り寄せるための儀式だ。「ひきずっている感情をリセットし、爆音のロックをかけながら書きまくります。生活音から離れ、自分の神経を高揚させるための音楽なんです」と話す。 |
武者修行以降、毎年のようにニューヨーク、シカゴなど海外で作品を発表してきた。漢字の意味、形、音を記憶している日本人と非漢字圏の民族の間には、鑑賞ひとつとってみても大きな差異がある。
「海外で評価される書には、瞬間芸術としてのおもしろさとグラフィックとしてのおもしろさがあるようです。アメリカでは新しさ、ヨーロッパでは深さに対する理解度が高い。欧米など海外において『書は新しい芸術』という見方と、もう一方では『日本を象徴する芸術文化』という見方があります」
欧米には東洋に対する憧憬や東洋哲学、禅に関心を寄せる層も少なくないようだ。
「きっかけは何であれ、パワーや斬新さで興味をひきつけておいて、徐々に漢字とはこんなに深くて複雑だと知らせていきたい」
「無限」70×135cm INFINITY 2005年 個展「柿沼康二の描く無限」(阪急うめだ本店) |
「書はアートである」という確信をつかんだ柿沼さんの次の命題は「アートとは何か?」だ。
「作品を見た際の『うわっ、何だ?』という驚き。それが芸術のパワーであり、生命力です。よい書は必ず“自然感”を伴います。ひずみや生々しさ、爆発をともなった上での自然です」
さらに奥義を案内してくれた。
「書は純白の紙を墨で上手に汚していく行為です。良い作品は白(空間)が目に痛いくらいに飛び込んできます。たとえば、白いスペースがなくなるくらい墨でぬりつぶしたとしても、光や生命感が宿る。その光や生命感というものは“見えない”もの。出そうとして出せるものではないんです。それでも『書に宿る光とはこういうものだ』と、まだ言い切れないから道を追い求め続けるのでしょう」
「いきていきて…」 177x354cm Lived.I Have Lived… 2005年 個展(阪急うめだ本店) |
柿沼さんは、2006年秋から活動の拠点をアメリカに移す。著名な大学に客員として招聘されることが決定している。
「環境を変え、客員という立場で自由に文学や芸術などと関わりが持てることが楽しみです。日本では芸術、教育、スポーツと別々にカテゴライズされ、交流が少ないですが、アメリカでは芸術と教育、福祉などが綿密にかかわり合っており、広がりがあります」
自らの仮説を立証し、自身の哲学を精錬するために、柿沼さんは渡米する。
「命」 360×480cm LIFE 2002年 (財)独立書人団 第50周年記念大作展(上野の森美術館) |
「漢字が読めるにこしたことはないが、書がアートであれば、文字が読めなくても心を揺さぶられる人は必ずいるはず。むしろ外国人の心には大きく響くのではないか。この渡米を通して再び大きく変容するであろう自分の芸術観と向かい合い、僕はさらに良い作品、新しい柿沼康二という作品を作りたいだけなんです」
書をひっさげて異文化世界に飛び込むことで、より強く日本語や日本人を意識する機会が増えるだろう。海の向こうでも赤裸々な「柿沼康二」を書き続けるに違いない。